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あしあと

    賦山何連歌(ふすやまなにれんが)愛知県指定有形文化財に

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    • ID:906
    賦山何連歌(ふすやまなにれんが)の冒頭部分

    賦山何連歌(ふすやまなにれんが)の冒頭部分

    地方の文化活動の一端を知る貴重な資料

    2010年8月27日付けで、洞雲院(坂部)が所有する、「賦山何連歌(ふすやまなにれんが)」(杜若連歌(かきつばたれんが))一巻が愛知県の有形文化財に指定されました。

    安土・桃山時代の連歌の第一人者、里村紹巴(さとむらじょうは)(1524~1602)は、永禄10(1567)年2月に京都を立ち、富士山見物に出掛けます。旅の途中の四月、刈谷城主水野氏の重臣、無仁斎(むじんさい)の家に招かれ連歌会を興行します。紹巴は京都に帰った後、金銀で草花などを下絵した華麗な絵懐紙(えかいし)を作り、刈谷の地で詠まれた百句を自ら清書して、興行主無仁斎に贈ったとされるものが賦山何連歌です。

    連歌は、短歌の上句と下句を交互に詠み重ねて、100句まで続ける「百韻」という形式がとられます。

    里村紹巴は、織田信長や豊臣秀吉ら権力者との交流が深かった連歌師です。連歌師は京と地方の間を旅する途中に、その行く先で歓待され、連歌の興行に招かれて、連歌の指導をしました。

    縦18cm、横408cmの巻物に仕立てられた絵懐紙には、冒頭に「賦山何連歌」と書かれ、「杜若おりゐてくらす木陰かな」「沢辺の水もなつふかき色」の2句で始まり、100句続きます。

    今回、県指定の文化財になった理由は、『紹巴富士見道記』に記された連歌会の懐紙が、賦山何連歌を含め3書しか残っていないこと、華麗な絵懐紙に紹巴が自ら連歌を清書したこと、当時のこの地方の文化活動の一端を知る資料として貴重であることなどです。

    刈谷の地で詠まれた連歌が、どうして洞雲院に残っているのかは、不明のようですが、洞雲院は水野忠政の娘徳川家康の生母於大の方が再婚した坂部城主久松家の菩提寺で、水野家と久松家を介して、於大の方の遺品などとともに、同院の所蔵となったと考えられるようです。

    連歌を詠んだ人と数が記された賦山何連歌(ふすやまなにれんが)末尾部分

    連歌を詠んだ人と数が記された賦山何連歌(ふすやまなにれんが)末尾部分

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