知多四国八十八カ所巡り
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阿久比町の札所
知多路の春は知多四国弘法参りで始まります。昔は「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えながら歩いて巡礼をしましたが、現在は自家用車やタクシーでの霊場巡りに変わってきました。阿久比町内には13番の板山安楽寺をはじめ17番の高岡観音寺まで5つの札所があります。また、知多四国八十八カ所霊場三開山の一人、岡戸半蔵は阿久比町福住の出身です。
13番札所「安楽寺」
安楽寺の本尊は「無量寿如来(むりょうじゅにょらい)」で、曹洞宗に属します。
寺伝によると、文禄2(1593)年に洞雲院二世久山昌察〈きゅうざんしょうさつ〉大和尚を開山として創建されました。慶安元(1648)年現在地に堂宇を移し、今日に至っています。
本堂の西隣には、聖観音をまつった観音堂があるがあります。この本尊は、9年に一度の開帳の時しか目にすることができない秘仏です。
境内の地蔵堂には、耳の遠い人が穴の空いた柄杓を供え、お祈りをするとよく耳が聞こえるようになるといわれている天白地蔵が安置されています。明治・大正時代には三河地方や伊勢地方の地名のある柄杓もよく見られたと言われています。
所在地 阿久比町大字板山字川向21
14番札所「興昌寺」
興昌寺の本尊は釈迦如来で、曹洞宗に属します。
寺伝によると、永禄3(1560)年の桶狭間の戦で、織田信長が今川義元を奇襲して討ったとき、今川勢の部下岡戸祢宜左衛門が福住に住み、知多郡東浦町緒川にある曹洞宗の乾坤院四世亨隠慶泉(こういんけいせん)大和尚を迎えて開山したといわれています。
興昌寺の門前には、福住出身者の岡戸半蔵の像が行者堂にまつられています。
所在地 阿久比町大字福住字東脇10
15番札所「洞雲院」
洞雲院の本尊は如意輪観世音菩薩で、曹洞宗に属します。
寺伝によると、創建は天暦2(948)年で、菅原道真(すがわらのみちざね)の孫、菅原雅規(すがわらのまさのり)が開基とされています。
創建当時は、久松寺といい天台宗でしたが、明応2(1493)年に久松定益(ひさまつさだます)が禅透和尚を開山に迎え、久松寺を改め龍溪山久松寺洞雲院となり、曹洞宗の寺院として再建されました。
久松家歴代の菩提寺で、徳川家康の生母於大の方の墓や久松・松平家の墓地があります。
毎年3月には於大の方が女性の幸福招来を願って始まった観音懺法会(かんのんせんぽうえ)、通称「おせんぼ」が行われます。
所在地 阿久比町大字卯坂字英比67
16番札所「平泉寺」
平泉寺の本尊は不動明王で、天台宗に属します。
淳和天皇(じゅんなてんのう)が慈覚大師円仁(じかくたいしえんにん)に命じて、天長7(830)に開創したと伝わります。
文治6(1190)年、源頼朝が野間の里に父義朝(よしとも)の墓参の帰途、平泉寺に泊まり、名月を賞して大乗坊を円月坊と称するよう命じたといわれます。以来、坊内を円月坊というようになりました。
本尊は慈覚大師の作と伝えられ、毘沙門天立像と阿弥陀如来坐像とともに県の文化財に指定されています。
所在地 阿久比町大字椋岡字唐松29
17番札所「観音寺」
観音寺の本尊は十一面観音菩薩で、浄土宗に属します。
本尊の「十一面観音(じゅういちめんかんのん)」は、江戸時代中期の元禄2(1689)年の作で、50年に一度しか開帳されない秘仏です。
寺伝によれば、開基は善随(ぜんずい)大和尚で、創建は不詳です。樫木田村にあったものを高岡村に移したといわれています。
所在地 阿久比町大字矢高字三ノ山高15
岡戸半蔵
岡戸半蔵は、宝暦2(1752)年、福住(阿久比町内)に生まれました。中年になって一時に妻と子どもを亡くし途方に暮れ、近くの荒古の阿弥陀堂にこもる日々が続きました。亡くなった妻子の菩提をとむらうために、諸国巡礼の旅に出ました。四国の八十八か所も巡拝しました。
文政2(1819)年に古見妙楽寺の亮山上人と出会い、知多四国八十八カ所霊場の開設を決意して、田畑を売り払って資金を作りました。文政6年に、四国の武田安兵衛が加わり、三人で札所勧誘のため、霊場となる寺々へ向かいました。文政7(1824)年八十八カ所の制定を完了し、弘法大師像の開眼供養をしました。この年、古布村(美浜町)誓海寺で亡くなりました。73歳でした。
美浜町の誓海寺には、半蔵の墓と彼が建立した大乗妙典66部供養塔があります。
半蔵がこもった荒古の阿弥陀堂に、彼の木像が安置されていましたが、現在は福住の興昌寺に移され、ゆかりの馬のあぶみも保管されています。