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あしあと

    於大の方

    • [更新日:
    • ID:184

    徳川家康の生母「於大の方」

    日本美術院院友安沢阿弥作『母情仏心』。阿久比町立図書館所蔵「於大の方」絵画

    阿久比町立図書館所蔵「於大の方」絵画。日本美術院院友安沢阿弥作『母情仏心』。

    徳川家康の生母「於大の方」は、14歳のとき、岡崎城主松平広忠に嫁ぎ翌年竹千代(後の家康)を産みました。その後政略的に離別させられ、坂部城主久松俊勝に再嫁します。

    於大の方は、その後15年間阿久比の地で暮らしました。
     
    家康に対しては音信を絶やすことはなく、心のこもる慰問の品を送り続け、少年期の家康の心の支えとなりました。また、家康が今川氏配下の武将として尾張に出陣のおり、坂部城に立ち寄り「於大の方」と再会を果たしたと伝えられています。
     
    慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦で家康が勝利し天下の実権を握った2年後、慶長7(1602)年8月28日京都伏見城で没しました。なお遺髪は阿久比洞雲院の墓所に分納されています。

    『お大の方』

    薫風

    天文16(1547)年の初夏、ここ坂部の城外では、かぐわしい薫風<くんぷう>がそよそよと稲田を吹き渡っておりました。
                           
    「のう、お殿様が緒川から新しい奥方様を春先にお迎えになって、もうかれこれ三月になるかのう。おかん様のこともあって、なんとなく華やかなご婚礼も冷たく感じられたが、このごろでは、お城も村も、穏やかに落ち着いて、わしらまでなごんできたわ。」

    「そうよのう。これも今度の奥方様のお人がらによるのかもしれんて・・・。」

    「奥方様も、聞くところによると、おかわいそうなお方だそうな。初めてお嫁に行かれた岡崎のお城へ竹千代様という3つにもならぬかわいいお子を残して帰されたばかりという ことだ」

    「わしら下々の者には、事の次第はようわからんが、いくさというものはむごいものよのう・・・。」

    「ご不縁になられたが17歳というお若さでよ、岡崎のご家来衆が大勢泣きながら送って こられたそうなが、国境で皆帰され、村の百姓衆に輿をかつがせたということだ。形原のお城を同じように離縁されたお姉上様を送ってこられた方々が刈谷で皆殺しにされなすったのとは大変な違いだと、三河では、えらい評判だそうな。」

    「お若いのに、情をよう心得しゃったお方よのう。・・・お殿様も、 このごろは晴れやかなお顔をお見受けするし、前のお子、弥九郎さまもはしゃぎまわっておられるということだ。」

    「ほんに、うれしいことだのう。物騒な世の中で、南では戦が始まっているが、おかげでここは、よい取り入れが出来そうだ。」

    「あ、それで思い出した。先ごろ名主さまが城内へ呼び出されて、奥方さまから棉の実をいただいてこられた。綿を作って紡げと言われてな。」

    「そうかえ。それはありがたい。なかなか手に入らぬものを・・・。ほんにお心の深いお方じゃ。わしらも精を出さねばのう。」

    面影

    お大の方は、まだ木の香の漂う一室にひっそりと座っておりました。華やかな調度に囲まれたその部屋は、数か月前の婚礼のなまめかしさを残しつつも、城主の奥方の住まいとしての落ち着きを見せ始めておりました。

    夫、坂部城主久松俊勝は、打てば響くような岡崎の広忠とは違い、無口でずっしりした感じでしたが、誠実に傷心の新妻をいたわる優しい心配りを見せ、お大の方が岡崎から抱いて連れ帰った乳飲み子の姫も、この城へ引き取るよう計らってくれました。お大の方は、俊勝の広くたくましい胸がいつでも自分を強く抱き取ってくれる思いで、身も心も、城主の妻として新しく生きようとしていました。

    ところが、新しい母になつき、まつわりついては全身で語りかけてくる信俊の姿に、またしても岡崎へ残してきた竹千代の面影を見てしまったのです。

    兄水野信元の命に抗し切れず、去年刈谷の楞厳寺<りょうごんじ>に再出発を誓ってこの城へ嫁ぎ、幸せ をつかみそうに見えた彼女でしたが、それだけに、風雲急を告げる岡崎の孤児が思われ、 か細い肩を落として、涙にむせぶのでした。

    平和な阿久比の里は、黄金波打つ実りの秋を迎えておりました。

    「お方よ。一大事となりそうじゃ。急使によれば、熱田に捕われの竹千代どのを岡崎衆が奪い返そうとする動きがあり、 織田信秀どのは、いかいご立腹とのこと。竹千代どのの身にもしものことがあってはならぬ。そなたの存念を聞かせよ。」

    「殿のお心に甘えて、平野久蔵どの竹内久六どのに、熱田への心づけを届けさせていただ きました。その上の重ねてのわがままにござりまするが、どうか、わが身に代えての命乞いに清洲へ参ること、お許しくださりませ。」

    「おお、よくぞ申された。わしも同道して参ろう。急ぎ支度をいたせ。」

    「はいっ・・・。」

    再会

    「奥方様っ・・・。奥方様っ・・・。」

    庭先でひそやかではあったが、せき込んで呼ぶ声に、お大の方は筆持つ手を止めました。

    刈谷から持ってきた持仏の前には、ろうそくの火がかすかにゆらぎ、香の青い煙が一条、 ゆるやかに立ち上がっていました。その前にしつらえた経机に向かって、お大の方は、このごろ日課としている血書の写経を進めているところでした。白磁の小皿には、小豆の汁で溶かれた彼女の指からしぼった鮮血が、残り少なくたまっていました。一字三礼、阿弥陀経を写しながら、薄幸の子、岡崎の竹千代と、 夫俊勝のために、わが身を代えてと祈っていたのです。その写経も後少しです。

    「・・・その声は久蔵どのか。何事でありますか。」

    時は、永禄3年5月17日の昼下がり、坂部城は戦雲をはらんで、ぴいんと張り詰めた空気に包まれていました。

    「奥方様、殿よりの内々の御下知でござる。ただ今、岡崎の元康さまがお見えになられました。」

    「ええっ、竹千代が・・・。」

    お大の方は、思わず立ち上がっていました。

    坂部城主久松俊勝に添って、お大の方はすでに33歳。3児2女に恵まれ、夫に後顧の憂いを与えない、立派な城主の妻となっておりました。

    しかし、その彼女にも、薄幸の子の面影がいつもまぶたの裏に焼きついて離れませんでした。涙の別離から、すでに16年。熱田から駿府へ、久六・久蔵や、玄応尼<げんのうに>となった母お富の方を通じて、さまざまな品を届けてはきたものの、長い年月、一度も会い、抱くことのなかったわが子が、戦乱の敵地であるここへしのんで来てくれた。涙のあふれるまぶたの裏で、ふと兄信元の顔がよぎって去りました・・・。

    元康は、両手を畳についたまま、ただひたすら母の顔を見つめていました。駿府で世話になった祖母の顔から想像していたとおりの母の顔が目の前にある。

    今川義元の命令で、だれの目にも無理と考えられた大高城への兵糧の運び入れを成し遂 げ、明日の総攻撃を前に、ひと目でもよい、まぶたの母に別れを告げたいと、敵味方と別 れた伯父のはからいで、わずかな手兵と駆けてきた元康だったのです。

    よちよち歩きに、よく転んでは泣いた、ずんぐりとした体で丸顔の竹千代が、こんなにりりしい若武者元康となって自分の前にひかえている。

    お大の方は、体を小刻みに震わせながら、

    「・・・お子が生まれましたそうな・・・。」

    そう言っただけで、きらりと光るしずくを、 膝の上で固く握りしめた手にしたたらせました。

    縁の薄い母子は、言葉もなく、あいさつも忘れて、ただ見つめ合うばかりでした。

    時間がない・・・。お大の方は、一心にわが子の食事を調え、元康は、黙ってそれをかきこみ、母も黙って見つめておりました。

    そのとき、別間から、むずかり泣く乳飲み子の声が聞こえました。

     「母上、元康には兄弟がおりもうした。どうぞ、お子たちをこれへ。」

    お大の方は、はじめてわれに帰り、笑顔でうながす元康にちらとほほえみかけて、いそいそと立ち上がります。

    短い夜はすでに東の丘の陵線をかすかに染め始め、菩提寺洞雲院でつき鳴らす鐘がいんいんと暁を告げておりました。

    元康は、総攻撃に臨む張りつめた心で、心おきなく城門を離れようとしていました。そして、ひっそりとたたずんで、いつまでも騎影を見送っているお大の方の傍らには、戦場では命をかけて相戦うことになるやも知れぬ俊勝のたくましい体が、そっと寄り添っておりました。

    松影

    慶長7年8月28日、お大の方は、伏見城中の豪華な一室に、静かに横たわっておりまし た。

    関が原の戦いによって名実共に天下の棟梁となり、内大臣に任ぜられたわが子家康に2月に招かれて京を訪れていたお大の方は、内大臣の生母として後陽成<ごようぜい>天皇に閲し、高台院 <こうだいいん>(秀吉の正室ねね)にも会い、子や孫に手をとられて京洛の見物を楽しんだのでしたが、7月の半ばに病臥の身となったのです。

    家康はじめ、それぞれ一城の主となっている子どもや甥たちの百方手を尽くしての医療看護も、朝廷の思し召しによる社寺での平癒祈願 も、彼女の75歳の定命を延ばすことはできそうもありませんでした。

    枕もとで息を詰めて見守っている人々の目をよそに、静かに瞳を閉じているお大の方の脳裏には、彼女の波乱に満ちた人生が走馬灯のようによぎります。

    今川義元の討ち死に後、岡崎城を取り戻した家康は、西郡<にしごおり>城主となった夫久松俊勝や忠誠二なき岡崎衆の決死の働きで、荒れ狂った一向一揆も甲州勢の怒涛も切り抜け、次第に頭角を現していった・・・。

    しかし、天下を取った信長は、お大の願いをよく聞いてくれた兄水野信元を、こともあろうに、わが子家康に命じて殺させ、また、実の子として慈しみ、後事を託した久松信俊をも大阪四天王寺で切腹させた。幼い二人の孫を呑んで焼け落ちていった坂部城・・・。

    そして、あまりにも誠実なるが故に、信長と家康の仕打ちを怒り、長い流浪の末に憤死した夫の俊勝・・・。ただちに黒髪を切っ て、伝通院と号し、愛する夫や亡き人々の冥福を祈ろうとしたわが身・・・。

    その後、幾度かの死地を切り抜けていく家康に乞われ、岡崎・浜松・駿府と、生母として居を移して行ったのだが、その家康も今では、天下の大御所としての貫禄を備えてきている。

    もう、私の手の届かぬ存在となった。坂部城で生んだ康元は因幡守、定勝は隠岐守に、甥の水野勝茂は日向守と、皆一国一城の主ばかり。

    もう、私は用のない身となった。

    思えば、15年の短い歳月ではあったが、 傷心の身を夫の翼に抱かれ、多くの幼な子に囲まれながら、必死になって岡崎に残した子を思い、仕送りを続け、血書までしてきた、 あのころが、あの阿久比の里が、私にとっては、いちばんなつかしい・・・。

    物音ひとつしない病室の明り障子に、細長く 尾を引いていた庭の松の枝影が、ひそと揺れ たとき、お大の方は深々と沈んで行く意識の中で、思い出深い坂部城の一室に、夫俊勝に 寄り添い、幼な子をあやしつつ、若武者竹千代と談笑している自分の姿を見て、にことほほえんでおりました。

    『阿久比の昔話』(昭和57年11月3日阿久比町発行)から

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