横松大工に萩左官、宮津さかろく
〜その3「宮津サカロク」の話〜
酒の醸造にたずさわる人のことを「サカロク」と言います。
いつごろからサカロクに出ていたか分かりませんが「徇行記」によると、江戸時代の中期ごろからすでに始まっていたと思われ、宮津の80人をはじめとして板山、坂部、萩、稗之宮などから農閑期にはサカロクとして働きに出ていました。
行き先は半田・亀崎・知立・海部郡などの県内をはじめ岐阜・三重・静岡など各地に出ていました。出掛けるときのメンバーはほぼ決まっていて、オヤジ(サカロク全体を統制し、酒造りの全責任をもつ杜氏)が近所の人たちを10人から15人ぐらいを引き連れていくことが多く、平均して4年〜5年で酒屋を変わっていました。
多くの人は秋の米の取り入れが全部終わらないうちに出掛けていたため、米の取り入れの後片付けは、年寄りや女性の仕事となっていました。
サカロクが家に帰る時期は、3月末ぐらいで、仕事の内容や出掛ける地方よってバラバラでした。
阿久比町では昭和のはじめころまでサカロクとして働きに出掛けていましたが、それ以来酒屋も会社組織となり、サカロクとして出稼ぎする人はいなくなりました。
(参考 阿久比町誌資料編8)
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今回で「横松大工に萩左官、宮津サカロク」の連載を終了します。 |