広報 あぐい
2009.10.15
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あぐいぶらり旅 
〜石造物を巡る(坂部・卯之山コース 2)〜

シリーズ 阿久比を歩く 110

 



町指定文化財「久松・松平家葬地」



久松家の菩提寺「洞雲院」


洞雲院周辺へ石造物を探しに友人と出掛けた。境内西の裏山にある「久松氏塋域えいいき」を訪れる。戦国期の阿久比を代表する久松家に関係が深い人物の墓地が並び、昭和57年3月には「久松・松平家葬地」として町指定文化財となっている場所だ。

老住職が親切に案内してくれる。「墓までの道に敷かれている石は、名古屋市で『ちんちん電車』が走っている時代、レールの横に敷かれていた御影石ですよ」。昭和57年NHK大河ドラマ『徳川家康』で、阿久比の地が家康の生母於大の方が暮らした舞台として紹介された後に、訪れる人が増え、参道を整備した際のエピソードを聞かせてくれる。

まつられているのは久松定益さだます、久松定義さだよし、久松俊勝としかつ、於大の方、松平定綱さだつなの各氏。5基の墓石は、それぞれ門扉があり、三方が石柱で囲まれた中に置かれる。江戸時代になって整備されたらしく、於大の方と松平定綱の門扉には「三葉葵」の紋が見られる。

久松定益は洞雲院の建立者。久松定義は定益の子で阿古居あぐいやかた(後に阿古居城あぐいじょうと呼ばれる)を築いたといわれる。

定義の肖像画が洞雲院に残る。定義は、室町時代の画家明兆みんちょうの描いた『十六羅漢図』を3幅(町指定文化財)購入して、久松家の繁栄のために“羅漢供養”をするほど、仏教の信仰心が深かったようだ。

久松俊勝は定義の子。阿古居城主となった俊勝のもとへ再嫁したのは於大の方。於大の方の墓には「遺髪」が眠る。2人の間に生まれた定勝さだかつ(初代桑名藩主・初代松山藩祖)の次男、松平定綱は第2代桑名藩主となった人物で、寛政の改革を行った松平定信さだのぶは子孫にあたる。

「たくさんの人物名が出てくると、1回聞いただけでは覚えられないよね」と私が言う。友人がぶつぶつと「俊勝のおじいさんが、ええっと、定益で、この人があれで」。「あれって、誰?」。2人とも頭の中がパニック状態。

「定綱の遺言で、この場所に墓が設けられ、桑名藩から毎年馬に乗って2人ずつ、供養に訪れたという記録が寺に残されています。それからね……」。老住職の話に熱が入る。

あの人は、あれだったよね」。いろいろな話を整理しながら帰途につく。



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