広報 あぐい
2009.07.01
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あぐいぶらり旅 
〜石造物を巡る(板山・福住・白沢コース 4)〜

シリーズ 阿久比を歩く 103

 



半蔵行者堂横に立つ“半蔵行者堂標”



墓地の中でひときわ目立つ“楚山先生墓石”


いつもの“相棒”友人と2人で福住地区の興昌寺へ、「半蔵行者堂標」と「楚山先生墓石」を探しに出掛けた。

興昌寺山門下の西側の一角に、岡戸半蔵をまつる行者堂があり、その右横に「半蔵行者堂標」が立つ。

岡戸半蔵は福住出身で、知多四国八十八カ所霊場を開いた一人である。阿久比風土記の会が編集した『知多四国開創 阿久比出身岡戸半蔵』によれば、半蔵は明治36年福住荒古に造られた阿弥陀堂でまつられていた。阿弥陀堂は昭和30年ころ、東部線の拡張により取り壊されることになり、知多四国十四番札所で縁の深い興昌寺の山門西側に“半蔵行者堂”として再建される。堂標もそのときに現在の場所に移転したようだ。

堂標は高さが約1m。風化がひどく、頂の突起が削れて四角柱となっている。「明治44年3月」と記された文字が読み取れる。

「四角柱の面積の求め方覚えてる?」。私からの突然の質問に友人は、「底面積×高さで求まりますよ」。自信満々に答える。「さすがだね」とほめる。「テレビのクイズ番組に、この手の問題がよく出るので、妻に僕の頭の良さを認識させるため、こっそり勉強してるんですよ」。「じゃあ、球の面積は?」。「台形の面積はばっちりなんですけど。昨日の夜、早く寝てしまって……」。この言い訳を岡戸半蔵はどう思うだろうか。

境内を通り、西側の墓地へ進む。「故大村福三郎楚山先生墓」の文字が目立つ大きな墓石を発見。

「大村福三郎楚山」(1843〜1907)。文化財調査報告書では、尾張藩校明倫堂最後の教授で福住出身と解説される。墓は明治41年、親戚や門人により建立。

藩校は江戸時代、藩が経営した藩士の教育を目的とする教育機関。明倫堂の初代督学(校長)は東海市出身の儒学者細井平洲。思わぬことがつながっているものだ。「明倫堂で学んだお侍さんたちは、球の面積は求められるでしょうかね」。「名門明倫堂だよ。地球の面積まで暗記していると思うよ」。

帰り際、半蔵行者堂に手を合わす高齢の女性を見掛ける。甚目寺町から知多四国参りに家族で来たとのこと。私たち2人も並んで手を合わせる。雲行きが怪しく、雨が降りそうになってきたので家路を急いだ。



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