広報 あぐい
2009.05.01
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あぐいぶらり旅 
〜石造物を巡る(横松・萩・宮津コース 4)〜

シリーズ 阿久比を歩く 99

 



11基並ぶ“燈籠”



青年会場の
基礎になっている“石垣”


石造物を求めて、宮津熱田社へ行く。少し動けば汗が出るような暖かさ。桜も花が散り、葉桜となり新緑がまぶしい。

境内外の一角に「戦没記念碑」が建つ。表面には「陸軍大将桂太郎書」、裏面には「明治廿七、八年戦役従軍者 十名」と刻まれる。日清戦争で亡くなった人々がしのばれている。

記念碑の台石が宮津公民館西にある二子塚古墳(町指定文化財)石棺(せっかん)のふたであると伝えられる。文書で書かれた正式な記録はないが、本当にこれが事実であるならば、大事な石棺のふたがなぜ台石に使われたのか、何か謎がありそうだ。「隠された秘密がありそうな、ミステリアスな話でワクワクしますよ」と友人が言う。「確かにそうだよね」と私が返す。

しばらく聞き込みを続けたが、謎は解けない。残念。謎はまたの機会に調べることにして、熱田社境内へと進む。拝殿の左右に天然記念物の楠(町指定文化財)が2本生い茂る。西側前方に目を向けると11基の燈籠(とうろう)が等間隔に並ぶ。

文化財調査報告書には「熱田社燈籠群」として紹介される。所々にコケが生え、古い燈籠であることが一目で分かる。下の支柱部分に今からおよそ300年前の江戸時代「元禄」の元号が刻まれている。

いわれなどを尋ねてみたが、存在すら知らない人がほとんどだ。唯一「元禄燈籠(げんろくとうろう)」と呼ばれていることが分かった。薄暗い場所にある燈籠群だが、西から差し込む日を受けて、11基の燈籠が明るく照らし出された姿は幻想的だ。

今回のコースの最後に「青年会場石垣」を見た。宮津地区の青年会場の基礎には、江戸時代後期から石垣が積まれている。

建物の屋根瓦の最上部に“若”と文字が見える。長老は言う。「この建物は『(わか)(しゅう)(ぐら)』と呼ぶ方が、わしらにはなじみがある。祭礼の前になると囃子(はやし)を覚える場所で、昔は若いもんが、先輩からいろいろなことを教わる“修行の場”でもあったんだ」。

今年も春祭りが行われ、青年会場の前に2台の山車が並び、若い衆の威勢のいい声が響き渡った。「石垣」は時代が移っても変わることのない、祭りのにぎやかな光景を静かに見守り続けていた。



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