戦国時代に阿久比で生誕した三兄弟
3回シリーズの最後は三男「定勝」を紹介します。
三男 松平 定勝
永禄2(1559)年父は坂部城主久松俊勝、母は於大の方(伝通院)の三男として誕生。生後まもなく、異父兄の松平元康(のちの徳川家康)から家門に準じて、松平の称号を与えられました。
織田信長が本能寺の変で家臣の明智光秀によって自尽した直後の天正10(1582)年6月、定勝23歳のとき、勢いをもった羽柴秀吉(のちの豊臣)は家康に、定勝を羽柴家の養子にさせるよう要求しました。しかし、生母である於大の方が強く家康に反対し、とどめられました。(前回まで紹介したとおり、長兄・康元が常に本国を留守にしていたことや、次兄・康俊も少年時代から他家へ人質として出されていたことから、於大の方は末っ子の定勝だけは自分のそばに置いておこうとしたためです。)
そんなことから定勝は一時、家康からは疎んじられていましたが、やはりそこは異父兄弟、その後、家康は親子ほど歳の離れた定勝を非常に可愛がりました。
天正18(1590)年9月、定勝31歳のとき、下総国(現在の千葉県)3,000石を与えられ、慶長4(1600)年4,000石を増加され、伊勢国長島城主となりました。
慶長19(1614)年大阪冬の陣、元和元(1615)年大阪夏の陣では伏見城、二条城を守備、家康からの信頼の厚さが分かります。
家康没後の元和3(1617)年には伊勢国桑名城を2代将軍秀忠から与えられました。
寛永元(1624)年没、享年65歳でした。その子孫は後に桑名藩主や松山藩主として栄えました。定勝の墓所は三重県桑名市照源寺にあります。
(一部『お大の方物語』から引用) |