

竹やぶに埋まる「道標」

全体に緑色のコケが覆う
「九右ヱ門地蔵尊」

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植大野崎の信号を曲がり西へ向かう。知多半島道路下のトンネルをくぐり、しばらく行き、信号を直進して蟻塚根橋を渡る。西長子付近にあるとされる「道標」を探す。
周りは田んぼや雑木林。土手にはツクシが顔を出す。時折、鳥のさえずりが聞こえる。あぜ道に軽トラックが止まる。農作業を終えて、雑木林の方から戻ってくる男性の姿が見えたので、「道標」について聞いてみた。
「2つあるよ。行ってみるかね」。快く案内役を引き受けてくれる。友人と男性の後に続く。
男性は「1つ目は、これだよ」と、竹やぶに埋もれる石造物を指差す。上部に阿弥陀立像の浮き彫りがはっきりと見える。その下には「右大」、「左と」の文字が読み取れる。「右大の」、「左とこなベ」と記されているようだが、埋もれてしまい文字が見えない。
半田市に在住という男性は阿久比町地内で農業を営む。私たちが歩いてきた道は、男性いわく「黒鍬街道」と呼ばれていたようだ。
近世、知多半島の農家の人々は、毎年農閑期に少しでも収入を得て、生活を楽にしようと、各地方へ出稼ぎに出掛けた。主な仕事は土木工事で、工事に使う大きな黒色の鍬を持って出掛けたことから“黒鍬稼ぎ”と呼び、大正時代末まで続いたとされる。
「この道を使い、常滑の大野から亀崎や三河へ多くの職人さんが出掛けたと聞くよ」。道標は、かつての主要街道の重要ポイントで“阿弥陀さん”は、往来する人々を静かに見守った。
「もう1つはこの荒地の向こうだよ」。草木をかき分けなければ行くことができない場所に「九右ヱ門地蔵尊」があるらしい。「どうしてお地蔵さんがあることを、知ってみえるのですか」と友人が尋ねる。「昔、牛車を引いて田んぼへ通った道で、いつも見てたからだよ」との返答。
目の前に小さな地蔵が現れた。表に「右山田、左とこなべ」、裏側に「願主九右ヱ門」の文字が刻まれると『町文化財調査報告書』に解説される。野ざらしで、緑色のコケが全体を覆う。
「この辺りは子どものころ春になると“ぽんつく”をして遊んだ場所だからね。ウナギやナマズが捕れたよ」。男性の目が童心に返る。
男性に出会えなければ2つの石造物の発見はなかった。「『一期一会』ですよね」。友人の言葉にうなずいた。 |