「『…木下藤吉郎や兄者たち、水野どのや久松どのまで取りなしてくだされたのだが、きついお怒りは解けそうもない…』。
『…お力落としはなされまするな。いつかは、きっとお許しが出ましょうほどに…』。
『ここでしばらく縁者の前田与十郎どののもとに置いてもらって、そなたたちにもいかい世話になったが、近く美濃攻めにかかられるに違いないから、荒子で次の機を伺いたい。それで、多左衛門どのに頼みがある。これなる刀一振りと旗一流は、わしがこたびの戦に用いた品、戦勝御礼と心願成就を祈るため、ご神前に奉納したいと思うのだが…』。
『はい、確かに私がお預かりいたし、末永くご神宝としてお守りいたしましょう』。
多左衛門は、街道を次第に小さく遠ざかって行く馬上の影を目で追いながら、いつまでも立ちすくんでおりました。『阿久比の昔話 鎮守の神宝』から」。
戦国時代の武将で加賀百万石の礎を築いた前田利家が“刀1本と旗1片”を寄進したと言われる話が残る草木地区の八幡神社を訪ねた。
前田利家は尾張国荒子(現在の名古屋市中川区)の出身。永禄2(1559)年、主君織田信長がかわいがる家臣十阿弥を斬殺してしまい、信長から出仕停止処分を受け浪人暮らしをすることになる。永禄3(1560)年、桶狭間の合戦で信頼を取り戻そうと東奔西走するが信長には許してもらえない。
この年の秋、気が晴れないまま利家は草木村の鎮守八幡神社にさしかかり、豪農多左衛門に出会う。草木村に前田利家の縁者、前田与十郎がいた(正盛院過去帳に名前あり)。利家はしばらくこの地で過ごし村人にも世話になったので、戦で使った“刀1本と旗1片”を戦勝のお礼と心願成就を祈るため、八幡神社の神前に奉納したいと与十郎に申し出る。その後、八幡神社に神宝としてまつられる。(永禄4年、利家は美濃の斎藤竜興攻略の活躍で信長から信頼を回復。)
神社近くの畑を耕す高齢の男性に刀と旗のことを尋ねてみる。「ずっと昔から草木に住んでいるが、見たことも聞いたこともないね」と答えが返ってきた。地元の人でもほとんど知られていない伝説のようだ。
利家は「菅原道真公の末裔である」と公言していたという説がある。前田家の家紋は梅鉢。道真は阿久比の郷を開いたと言われる“英比麿”の祖父。梅は阿久比町の花。2つの共通点から因縁めいたものを感じる。
「草木に立ち寄った場面、NHK大河ドラマ『利家とまつ』でやったかなあ」と友人に尋ねる。「どうでしょう。今度の日曜日からしっかり見ます」。「そうだね。今は『風林火山』だけどね…」。神宝は見ることはできなかったが、畑で満開に咲く梅の花が見ることができた。とても美しかった。 |