広報 あぐい
2009.04.01
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公民館だより

 

チアダンス教室


日にち   1月16日〜3月13日 全6回
場所   中央公民館本館

公民館教室の「チアダンス教室」で、受講生たちは体力づくり、ストレッチ、練習で心地良い汗を流しました。

チアダンスは声を出し、体を動かして、見る人と自分自身を元気付けるスポーツです。

回を重ねる度に元気になりました。受講者の中にはチアダンスを始めてから肩こりが治ったという声も。チアダンスの効能かもしれません。

 
 

箱ずしとおこしものづくり教室


日にち   3月7日
場所   中央公民館本館

「伝統料理を知ろう!」をテーマに「箱ずしとおこしものづくり教室」を開きました。

卵焼き、かまぼこ、シイタケ、サケを使った色鮮やかな箱ずしと、練った米粉を鯛や貝の木型に入れて形を付けて蒸したおこしものを作りました。

参加した親子は協力しながら、楽しく伝統料理を覚えました。

子どもに伝えたい あぐいのむかし(27)

 

英比谷十六カ村のはなし

〜その3 宮津村・板山村のはなし〜

宮津村は現在の大字宮津です。民家は蟹田川の南の寺社を中心に建ち並んでいました。南北に通じる道路にはいずれも蟹田川に橋が掛けられ、集落と田畑、他村への往来に重要な役割を果たしていました。

人口・戸数は、文政年間(1818年〜1830年)には戸数172戸、人口745人でしたが、現在は戸数約1,500戸、人口約4,500人と大幅に増加しています。

近年まで集落の中央を南北に通じる道の両側には金物屋、酒屋、呉服屋、雑貨屋などが建ち並び隣村などから多くの人出があったといわれています。

畑の面積がわずかしかなかったため、農閑期には黒鍬稼(くろくわかせ)ぎ(土木工事)や酒屋のサカロク(酒造り)に雇われて、出掛けていきました。特にサカロクには、2戸に1人が出稼ぎに出掛け、「宮津酒六(みやづさかろく)」と呼ばれていました。

板山村は現在の大字板山です。村の周りは丘陵に囲まれ孤立した形の一村としてまとまり、集落や耕地は村のほぼ中央を流れる福山川に沿って発達していました。

村を取り囲む丘陵は、ほとんど藩が管理する御林になっていたので、村の人々は自由に利用することが出来ませんでした。

畑は少なく、砂まじりの土のために、麦や大豆を多く作っていました。

寛文年間(1661年〜1673年)から文政年間の間に人口が2倍以上の120戸、494人となったため、田畑として利用可能な場所は次々と開墾し耕地を増やしてきました。しかし戸数に比べて耕地が少なかったため、他村と同様に農閑期には黒鍬稼ぎやサカロクに出掛け生活を支えていました。

次回は「福住村・白沢村のはなし」です。

(参考 『あぐいのあゆみ』、『阿久比町誌資料編一』) 



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