横松村は現在の阿久比町南東部に位置する大字横松です。集落は丘陵地の縁辺に東西に細長く建ち並び、背後は段丘崖となり、その高度差は約30mもあります。
戸数・人口は文政年間(1818年〜1830年)のころから現在まで、大きな変化はありません。戸数に比べて耕地が少ないので農業以外に多くの大工がいて、彼らは「横松大工」と呼ばれその技術は高く評価されていました。
特に堂宮大工には岸幕家と江原家の2つの家系があり、神社や山車を多く造りました。現在近郷各地に残っている多くの山車は横松村の大工が造ったといわれています。
横松村は英比川の堤防決壊でたびたび水害に見舞われてきましたが、このような技術者の存在と収入が村人の生活の助けとなっていました。
萩村は現在の阿久比町南東部に位置する大字萩です。村の東には海抜30mほどの低位性丘陵が南北に連なり、そのすそ野の微高地と団丘崖面に集落があります。
萩村の戸数・人口も横松村と同様に文政年間のころと大きな変化はありません。耕地の少ない農民が多かったため暮らし向きは楽ではなく、小作人としてほかの村の田畑を借りて耕している者、農閑期には黒鍬稼ぎ(土木工事)や酒屋の杜氏に雇われていく者もいました。
「横松大工に萩左官」といわれるほど農家の二・三男は、左官職を身に付ける者が多かったようです。
次回は「宮津村・板山村のはなし」です。 |