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阿久比神社「わたしは、すべてを教えた。だから今、ここから去っていくことにする。」泣きながら、アキクヒの神を見送った人々は、高台に社を建て、毎年季節の変わり目ごとに、白い服を着けてお参りをし、いつまでもその徳をたたえてきました。が与える種をまいて、米を作りなさい。えている。わたしは、お前たちが暖かく毎日を過ごすことができるよう、布織る技も教えよう……。」生活が、だんだん変わってゆきました。の周辺を耕し、女たちは、野山の麻あの皮をはぎ、機は織おりに精を出しました。始めるころ、田には黄金の重い穂が頭を垂れ、人々はさっぱりした白い着物で身を包んでおりました。神の教えに従ったために、初めて厳しい冬にも凍こえることなく、腹いっぱいの、極楽のような日々を送ることができた人々は、神から突然、こんな話を聞かされました。ますかの……。え、なぜこの村を宮津と言うのかって……。まから、こんな言い伝えを聞いておりますわい。天皇という天子さまがおられた時とか。今から何年くらい前のことなのか、わしのような者には、とんと分からぬ、それはそれは大昔のことでしてのう……。深く入り込んだ青い海だったそうなが、あるまた、お前たちの体は、寒さに小刻みに震 ─それからというもの、この地の人々の男たちは、木の鍬くで、入江に流れ込む小川そして、森の木々がだんだら模様に染まり ─そして、その明くる年の春のことです。わしのような老と人よに、なんぞお尋ねがありああ、そのことにつきましては、ご先祖さ昔、昔のことだったそうな。都には、景け行こ今の阿久比川を挟む田んぼは、そのころはかみ神のを祀まり、大た化か4年に、猿さ田た彦ひ神・天あ津つ彦ひ命み・こと瓊に々に杵ぎ尊みを合ご祀し、その後、英え比び麿まが社殿を造いらんんつまんん  うのろいつまるこきい いう ご わさ た2   3 りし営したと伝えている。ただ、現在地がやや低地であることから、その前地を権ご現げ山やと推定する旧半田町誌や、江戸時代松ま平だ君く山ざによって編まれた尾張志では、北原天神を比定する説など、異論がある。延喜式所載の知多三社の一つ、当町の阿久比神社は、社伝によれば、第23代顕宗天皇のころ創建(今から約千五百年前)となっており、開あ囓くこのこと① 帰らぬ船出⑵ ヤマトタケルノミコト─ 阿久比神社 ─

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