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虫 送 り椋岡、平へ泉せ寺じの本堂、尾張不動尊の横に頭ず平泉寺の和お尚しさんのお話によると、昭和20その明くる日、看病に疲れついウトウトと翌朝暗いうちに起きて、なけなしの金をそれからというものは、毎日朝晩、お水と主人が倒れてから三年半、おかげで今は元だれょう渡っていきます。大声ではやしながら草木各地の田を巡った「おんか送り」の行列は、地区の東端、四角形の枡ま池いに到着すると、一斉にかけ声をかけてサネモリ様を投げ入れ、子供たちはお駄だ賃ちのお菓子をたくさんもらって、家路へ急ぎました。ろして、「このお寺にお地蔵様をあずかってください。」 と言うのでした。和尚さんは、女の人を本堂に上げ、「おあずかりいたしましょう。何かわけがおありでしょう?」と尋ねると、その女の人は時々涙をぬぐいながら話をしたのです。─私は三河の鈴木という者です。私の主人は病気がちでしたが、二人の子供を育てるため軍需工場へ働きに行きました。毎日夜遅くまで残業しているうち、結け核かが進行し喀か血けをしました。お医者さんから「これだけ衰弱していては助からないかもしれない。」と言われ、私は目の前が真っ暗になりました。貧乏で病院へ入院させる金もありません。せめて栄養のあるものをと思っても、食べるものもありません。いっそのこと親子四人心中して天国でやりなおそうと思い、死巾きをかむり、涎よ掛かをかけて座布団の上にきち雑ぞ炊すをあげて一心に拝みました。 いう つっっく     33つず3333  うけんけすん  333んいんと座った三十センチくらいの小さな「おもかる地じ蔵ぞさん」があります。年太平洋戦争が終わってしばらくしたころ、お地蔵さんを背負った一人の女の人が、寺の前に立っていました。「何かご用ですか?」と聞くと、「このお寺は知多の十六番ですか。あーよかった……。」と言いながら、背中から大事にお地蔵様を下ぬ手立てを考えておりました。した時、向こうの方から金色のお地蔵様がにこやかな顔をしてこちらへ歩いてみえるのです。私は思わず「お助けください」と叫びました。その自分の声でハッとして眼を覚ますと、涙が流れていました。その時、これはお地蔵様におすがりせよという意味だと思い、子供まで道連れにして死のうとした自分が間違っていることに気がつきました。持って岡崎の石屋さんに行きました。大きなのは値段が高いので、一番小さいお地蔵さんを買って家へお祀りしました。気になり、わずかばかりの百姓をしています。家の中も明るく幸せになってまいりました。昔、農薬のなかったころの病害虫の大発生を、われわれの祖先は、たたりと考え、部落全員で、それを祀まってそのたたりを鎮しめたり、あるいは村境や池川へ追い払って害をのがれようとしたりした。祀る方が虫供養に発展し、送る方は虫送り儀礼となったと考えられる。本話でとり上げた虫送りは、昔はどの部落でも行っていたものだが、農薬の普及で次第に姿を消し、わずかな地域で伝統芸能行事として残っている。(皮肉なことに、すばらしい農薬は人間や自然にも薬害を及ぼすことになったのだが……。)当町に戦前まで残っていたのは、サネモリ様を用いる草木地区と、タイマツや神符による板山地区だが、今は行われていない。第四十二話おもかる地蔵151150

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