当町の昔の交通人に工くはいい値だが、こんなえらい仕事じゃあ、「みんなの話じゃあ、おまえは、山の砂とトロッコ稼かぎの両もうけで、えらいことだそうなのう。」「ばか言うな。そりゃあ、基も光みさは山が大きいから三百円にもなったが、力り蔵ぞさやおれは、百円そこそこだ。そりゃあ、トロッコ引きの割りに合わんわい。」「そりゃあ、そうだ。なにしろ、この暑さの中での土いじりだでのう……。今も、ちょっと現場を見てきたが、人夫たちが『アイゴー、アイゴー』とかけ声をかけ合って、汗をポタポタ落として働いとったが、ようあんなえらい仕事が続けられたもんだ。」「あれは、かけ声なんかじゃあねえ。『つらい、つらい』と言っとるんだぜ。日中は熱いからと、大古根から夜の十二時ごろにやってきて、午前の十時まで働くんだが、何しろ、この暑い中で、ようやったもんだ。この辺の若いもんじゃあ、一日も持たねえだろう。あれで日当が三円か四円じゃあ、気の毒なもんだ。……それでもよ、この間も、おれが目を回してへたばっとったら、『ニンニク食わんからダメねえ』と言って笑われちまった。……だがよ、あんな臭くえもん、食えるわけがねえ……。」 江戸時代までの当町の幹線道路は、初め、阿久比川西方の丘裾を南北に通る本街道と、東西の大野街道、宮津の港を中継点とし、東浦海路へ結ぶ舟路があったが、下半田・乙川東南部の開拓により、堤防道路が加わり、現在の道路の原形ができた。 昔は、荷物運搬を含めて、すべて徒歩であったが、次第に馬の背で運ぶようにもなった。(牛は農耕用、明治になって運送用となる。)駕か籠ごは江戸中期、荷車は明治中期に使用されるようになり、自転車の導入は明治後期である。 明治末、東浦に汽車、西浦に電車が通ったが、当地になく、人々は亀崎駅まで歩いていく不便さで、鉄道敷設の要望が強くなり、大正2年、横須賀─半田間の敷設が計画されたが、折りからの経済不況で中止となってしまった。その後、当町の人々の長い運動がみのって、昭和2年11月知多電気鉄道株式会社が設立され、昭和4年12月4日半田入い海み神社で起工式、同6年4月4日太田川─成岩間が開通、待望の電車が走った。 砂は、旧給食センターと都つ築づ紡ぼ東の砂山から採掘され、現植大駅のところから南北へ運ばれたという。労務者の飯は場ばは、大古根にあり、工事の進行には、当時の英え比び土木課長が尽力した。なお、当町植大の権ご現げ山から名作「ごんぎつね」を書いたといわれている岩や滑な出身の新に美み南な吉きには、十七歳の時、鉄道敷設工事労務者に取材した「アブジのくに」の作がある。(山の兄弟・町の兄弟、日本児童文学名作選、あかね書房刊)工事は名古屋の清し水み組ぐの請う負おいで、線路用の土本街道と大野街道昔の交通方法鉄道の開通鉄道敷設工事 んんいんちべいんきう みずけるとつせきう せ ん147146
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