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昔の織物のハタゴは……。」汗をふきふき、一々うなずきながら聞いていた佐吉の目が「ハタゴ」という言葉が出た時、厚めの目ぶたの奥でキラリと光りました。真剣な顔つきになった佐吉は、黙って、つうっと工場に入っていきました。佐吉は、まだ機はに掛かっている綿布を一枚一枚天眼鏡で覗き込み、それが終わると、今度は、一台一台隅から隅まで織機を調べていきました。どこをどうかまったのか、不思議が起きました。佐吉に糸をつながれ、シャットルを整えられた織機は、まるで生き返ったように動き始めました。どの織機も、どの織機も、止まることを忘れたように動き続けました。時たま止まる織機は必ず縦糸が切れていました。 調子づいてしまった織機は、田村さんがやっても、佐吉にせつかれての奥さんのサクノさんの手にかかっても同じでした。二日目も、三日目も動き続けました。四日目になって、車に乗り込みました。遠ざかって行く人力車を、田村さんは、「ふうん」とうなりながら、サクノさんは「グ「止まるところがいいのだ」ということが、田村さんにもやっと分かりました。なっていきました。目には、清さんが、高た瀬せ技師を呼びに、また名古屋まで走らされました。十五日目には、腕を見込まれ、植の鍛冶屋の広さんが呼ばれて来ました。うになったのは、二十一日目の朝のことでした。佐吉は、来た時とは大違いの一分ぶの隙すもない洋服姿で、ステッキまで持っていました。さんを呼ぶこと、三、四日は小こ鈴す谷やの退た三ぞさんの家にいることを告げた後、サクノさんに「一、二、三の四ですよ。」と言って、ハンドルを引く仕し草ぐを示し、人力グッ」とくる始動の際のハンドルの感じを思い出しながら見送っていました。しかし、一日、一日と、佐吉の目が厳しく五日目から、佐吉の夜なべが始まり、九日豊田佐吉が福住荒古をやっと出発できるよ佐吉は、糸が切れるようになったら植の広らし晒さが開発されるに及んで、その隣接地として、非紺こ屋やに依頼した。機は織おりに熟達した女性は、嫁よにたんめむた ったんいかう んいかんんんわん  りまい かい業制  さ がいうき    たか  当町のシンボルとしては、まず、おいしい阿久比米と木綿織布業があげられ、町内には現在も、大小多数の織布工場があって、日夜生産に励んでいる。  木綿については、三河の幡は豆ずへ千年以前に伝来という伝承があり、三河地方でまず栽培・織布され、古来、三み河か木も綿めとして喧け伝でされた。当地は三河との関係が深く、約四百年前にはすでに生産があったようであるが、江戸時代天て明め年間に岡お田だで木も綿め常に盛んになった。  織布は、秦は氏や服は部となどの帰化人とその子孫の特殊技術であったが、江戸時代になると、農村女子の内職として発達し、農家は、自身で棉わを栽培・収穫し、それを糸に紡つぎ、織るようになった。漂白や染色は、村に一、二軒くらいあった晒屋・りべもらい手が多く、大切にされたという。  地区に一~二人)や問と屋や(宮津に二軒)が、綿または糸を農家に渡し工賃を支払うようになった。また、糸に糊のつけ等をする玉た造つ屋も現われるようになった。  織機を置き、自家や農家の女性に織布させる者が現われ、今日の発展につながっていく。  場では明治20年ころ石油発動機を用いる動力織機を採用し、製品の量産化・均質化・省力化に努めた。本話は、大正初期豊田佐吉が栄さ生こに織機工場を造ったころの出来事で、機種は自動織機完成前の赤あ軽け便べ式と言われるものであった。江戸時代末から明治初期になると、仲な買が人(各その後、仲買人等の中には、自宅に数台以上の初めは手足で動かす木製の織機であったが、工くり三河木綿と知多晒機織り内職綿  替  織布工場の出現織機の改善141140

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