幕末の農村くさぎっしりと書き込んだ気の遠くなるほど長い薄い和紙の巻紙が納められ、その巻末に「文化十三年丙子冬十月十有四日、奉書写経為諸重罪五逆消滅懴悔清浄心不可思議因縁現世報恩、奉納詣尾張国愛知郡醍醐峯邑医王殿記」と奥書きされてあり、もとのように巻き戻すのに三十分以上もかかったほどでした。これは明らかに六十六部(単に六部とも言う)の納経です。心願のことがあって、日本全国を巡り、一国で一か所法華経を納めていく大変な修行です。奥書きの愛知郡醍醐峯邑という村はありませんから、愛知は知多の間違いで、知多郡大古根村ということなのでしょう。この大塚三益という人はどんな事情があって六部になったのでしょうか。きっと想像を絶する苦しみにあったか、辛いわけがあったのでしょう。私たちが老婦人に見送られて帰ろうとしたとき、カブに乗った人が立ち寄られてこう言明治23年3月31日は、朝から強い雨が降り続いておりました。横松や萩の人々は、皆ひっそりと家の中に閉じこもっていましたが、それは、雨のせいばかりではありません。東阿久比村の村長から、今日は一日中外へ出ないようにというお触れが出ていたからです。しかし、締め切った家の中へは、板びさしを打つ雨音と共に、東や北の方角から、大勢の人々の走り回る足音や、鋭い金具の響き、馬のいななき、重い車輪の音にはじけるような鉄砲の音が混じって聞こえてきました。「お父とっつあん。戦いが始まったよ。わし、見に行きたいなあ。」新に美み徳と三さ郎ろさんが駆け込んできました。われました。「この仏様はありがたいお方ですよ。おかげで事故には一度もあっていないですからね。」「こらっ、じっとしとれ。先生さまに出るなと言われとるだろうが。」「うん、見回りをするからなと言っとった。」「それみろ。今日はおとなしく、ワラないでも手伝っとれ。」「へえ、ご免やすな。おっさんはおいでで……。」「はいはい……。おや徳さんじゃありませんか。このひどい雨降りの中を、そんなにまあ息せき切って……。どうしやしたな。」「へえ、今日は外へ出るなというお達しで、家にこもっていましたところ、将校さんがおいでて、お宮へ見えるお方にお茶をさし上げてくれろと言われるもんだから、家の欠け茶碗じゃあ、いくらなんでもまずいと思ったんで、すぐ持ってめえりますと言っといて、借りに飛んできました。」そのころ、横松の清せ光こ寺じへ、隣接乙川村の征せ伐ばを経て、急速に明治維新へ移行することに半島を重視して海岸防備につとめることになり、当町の各村には、役人・人足の宿舎と手あて、運搬人足の拠出などが割り当てられた。本話の大古根村をはじめ、宮津・白沢・草木・卯之山の各村に関係文書が残っている。この黒船騒動は、安あ政せ元年の和親条約の締結で終わりを告げるが、その後、公武合体・長ち州しなる。農村でも、その影響を受け、地方国学者や神道信仰者を輩出し、本話「ええじゃないか」に見られる民衆行動が盛んになってくる。鎖国を続けていた江戸幕府も、その末期になると外国船の渡航・開港要求が激しくなり、文ぶ政せ8年異国船打ち払い令を出し、尾張藩も知多ょうゅう第三十七話寺宝の茶碗135134─ 薬 師 堂 ─ うぶくい いう つい いん んい
元のページ ../index.html#75