すり「はい、この暑いのに、ようおいでくださいましたねえ。」私たちの訪問を快く受けてくださった八十八歳の老婦人は、大古根の薬師堂で、にこやか色じに輝く立派な宮ぐ殿でが三つ並び、いろいろなうお方で、学問にすぐれ、書のたいへんお上手なお方であった。それでの、天子様が神様として敬われたくらいだった。だから、手習いや学問をする者は、このお社ヘようお願いをせんと上達せぬのだぞ。あっちの筆塚へ持っていって、筆を納めたら、『筆さん、ありがとう』と何度も言ってよく拝むのだぞ。」くりとうなずきながら聞いていましたが、お参りが済んで寺へ帰ってから、年長者は、長い漢文を書かされるのはいやだなあと考え、年少者は、寺でお赤飯が出るからうれしいなあと顔をほころばせたり、中には、寺の天神様の掛け軸の前にどんなお菓子が供えられとったかなあなどと首をひねったりしていました。そんなみんなの上の初春の空を、トンビがゆったりと輪を描いておりました。に迎えてくれました。うかと思われる広さで、正面の壇上には、金こお供く物もやお花が供えられて、この地区の人々の信仰心の深さが知られました。中央の宮殿内は左手に薬く壺つを持って立たれた薬や師し如に来らのご尊像で、その両側には二体の観か音の様をまじえた十二神将が並び、右側の宮殿内は木像のお地じ蔵ぞ様、左側のは毘び沙し門も様さが祀まられていまあ、それから、古い筆を持ってきた者は、子供たちは、神妙な顔をして、こっくりこっ街道沿いの薬師堂の中は、八畳ほどもあろうんまつゃんんぼくょいつんうき んんろいうまつ んう 級者には、書簡文・千字文・儒書などの学習が課せられた。珠算は加減乗除程度で、女の子は、十二、三歳になってから、富有の家の妻女や有識婦人に、しつけを兼ねて裁縫を習い、「お針子」と呼ばれた。江戸時代の教育は、中級以上の武士のための藩は校こがあっただけで、その他のためには、寺院・神主・医師・浪人などの開く寺小屋という私塾があり、七、八歳以上の男の子が通った。入学は初は午うの日で、子供は父兄に伴われ、机・文箱持参で出かけるのが恒こ例れで、謝礼は、盆と暮れの二度、その分に応じて僅かな金品を差し出す程度だった。学習は毎日でなく、教える者の都合により、修業年限に決まりはなかった。学習内容は「読み・書き・珠そ算ば」で、最初は、いろはの習字から始まり、次第に、村・国づくしから百姓往来や商売往来で終わるのが一般的で、上第三十六話ええじゃないか131130─ 筆 塚 ── 宝 安 寺 ─
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