阿久比の俳人わさ文ぶ化か9年の秋でござったが……。」ょうゅうょうとこゅうたわばず、北は奥お州しから南は九州まで、その句友の多いこと扶ふ桑そに並ぶ者なく、門弟数百とあがめられるお方だが……。」「思い出話が多くなられたは、お歳とをとられたせいでござろう。いくらご自身が医師でも、寄る年波には勝てぬもの……。」「おお、そういえば、お話の中で、そなたさまの噂うも出ましたわい。」「ほう、わしがこととは……。」「ほれ、そなたさまが『佗わ草ぞ紙し』に書かれた塊翁さまのお言葉のことよ。」「ああ、あれは『常のこと』を上じ梓しなされた「そなたさまのお噂から、『佗草紙』に触れられて、こう申された。─あの中で楚山も書いてくれたが、わしがまだ草木におったころ、生家へ出入りする作さ男おに助す治じ郎ろという老人がおった。その老農夫に、若いわしは、この世で楽らとはどういうことかと尋ねてみた。明り障し子じに松の枝の尾を引いているのも知らず、心を許し合った老句友は話し続けるのでした。文ぶ政せのころのことです。今日は初は午うの日で、神か詣もでや寺参りなどを楽しんでおりました。元げ禄ろ以前にこの村には延え命め寺じという大きな寺すると、助治郎が言うには、夏の暑い日盛りに体がたわむほどの重い荷を負って、あえぎつつ十丁ほど行ったところが、道端に程よい松の木影があり、見ればその傍からに冷たく湧わきでる清水がある。これはありがたいと、荷を降ろして一息つく。これが本当の楽じゃぞいと申したが、今にして思えば、まことにありがたい教えであった。の心を大切にいたさねばならぬ。額に汗することなく、楽隠居の日過ごしに句作するは、まことの歌詠みとは申されぬ。たゆえ、わしは、わがことと、身の縮む思いをいたしもうした。」「は、は、は……。おまえさまばかりではござらぬわい。この楚山とて同じこと。とにかくこの教えは、皆の衆にもよく伝えておかねばなりませぬなあ……。」阿久比谷白沢村の人々は、一日仕事を休んでがありましたが、どんな都合があったのか、大府へ引っ越してしまい、残った材で村人たちが建てたのが、この宝安寺なのです。く白梅の花のかすかな香りが、玄関口まで流れていました。「おたのもうします。ご免くだされまし…。」七つか八つになったばかりと思われる男の子涼しさや皺しになりたる足のまめいつしか短く傾くようになった日ざしが、ここは白は竜り山さ宝ほ安あ寺じの庫く裏りの玄関口です。ようやく春の気配が漂い始め、寺の庭に咲─と言われ士し朗ろの薫陶を受けて、尾張五老の一に数えられ来ら静せ、矢口の露ろ面め、坂部の石し虎こ、草木の岱た呂りらには宮津の光み政まらの句がある。宮津の新し海か淳あ武たは元げ禄ろ3年北原天神奉納連歌千句を興行、当地に古くから連歌・俳諧にすぐれた人物が居住していたことが分かる。俳句は元禄期に松ま尾お芭ば蕉しが大成し、全国的に隆盛を見ることになるが、当地では、明め和わ元年草木出生の竹た内う竹ち有ゆが、暁ぎ台だ・たが、その門弟の中には、横松の花か木ぼ、高岡の卯之山の都と暁ぎらがいる。平ひ井い大た巢そもその高弟の一人で、老後生家に草木庵を構えて当地の俳人育成に尽力し、本話中に記した多くの門弟があった。竹有─大巢の影響で、その後当地は阿久比俳人として高い評価を受けることになった。道ど記きには「椋む原はとい文ぶ4年の「阿あ波わ平へ集」ゃっょうらいうんいいいょくういけちくういつくんさつんいつけんいんうくらくい くんんいうみ いんつま んうんく く くけうんびう わしうう第十九話で触れたが、永え禄ろ10年富ふ士じ見みう人」が登場し、寛かょうょう第三十五話筆 塚127126─ 平井大巢墓 ─
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