知多新四国弘法参りゅく文ぶ政せ6年春のことです。─亮山さまが先 いん っう けきすうんいうんんうんいんんう うんうらいいくんじうょきううんかまんりんちんんんおんうのままけようんんい ──う んした。自分の志を遂げ、自分の余生を捧げるお方が目の前におられる。二人の手ががっしりと握り合わされました。二年後、讃さ岐ぬの武た田だ安や兵べ衛えさんが仲間に加わり、三人は札所開設のため東と奔ほ西せ走そしました。札所になってもらうお寺と部落に承知してもらわなければなりません。弘法大師のお木像を百体近くも造らねばなりません。半蔵さんは、そのため、福住の家屋敷・田畑をすっかり売り払って、その資金を作りました。頭に立ち、お大師様のお木像を背に乗せた馬の口を半蔵さんが執とり、そして本四国霊場のお砂を負おう安兵衛さんが続く一い行こが、土地の人々の合掌に迎えられて、札所となる寺々へ向かいました。大事業を成し遂げた半蔵さんは、その翌年古布の誓海寺で大勢の人に見とられながら永眠しました。七十三歳でした。した。「この知多の地は、わしに宿し縁えの深い所である。ここに札所を開いて、わしと縁を結ばせる仕事をおまえに任せよう。なお、おまえの協力者として、二人の浄行者をつかわしてやるぞ……。」の砂が盛られていることに気づきました。これは、高こ野やの霊土に違いない。大師様がおいでくだされたのだ。四国の札所霊場を八十八か所開いてもらおうと決心し、そのお加か護ごを祈って、本四国へ三度も巡拝に出かけました。「昨晩、お大師様が再び夢枕に立たれまして、あれから十年、おまえの固い心がよく分かった。あす、この寺へ参る者が、そなたの協力者の一人じゃ…。」夢から覚さめた亮山さんは、枕もとに一握りと申されましたのでのう…亮山さんの話を聞いた半蔵さんは感激しま亮山さんは知多に新岡お戸ど半は蔵ぞは宝ほ暦れ2年の生まれで、美み浜は町ち善ぜ切きの誓せ海か寺じには、かれの墓と、かれが建立した大乗寺じである。の東海岸を南下し、篠し島じ・日ひ間ま賀か島じへ船で渡り、西海岸を北上して、大お府ぶの円え通つ寺じで終わっている。四国霊場の寺々が真し言ご宗し一派であるのに対し、知多のは浄じ土ど真し宗し・日に蓮れ宗しを除く各宗派にわたっている。新四国開創に重要な役割りを果した福住村の妙典六十六部供養塔がある。なお、かれが参さ籠ろした荒あ古この阿あ弥み陀だ堂どに地元の人々の手でかれの木像が安置されたが、現在は福住の興こ昌し寺じの境内に移され、ゆかりの馬のあぶみも保管されている。当町内の札所は、十三番板山安あ楽ら寺じ、十四番福住興こ昌し寺う、十五番坂部洞と雲う院い、十六番椋岡平へ泉せ寺じ、十七番矢高観か音の豊と明あ市の曹そ源げ寺じをふゅうょうょう知多新四国八十八か所霊場は、文ぶ政せ7(一八二四)年3月に開創され、初めは準じ四国と呼ばれていた。り出しに、知多半島ゅんゅうゅうょう123122─ 興 昌 寺 ─
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