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ょうょうむらょうょう高た野のの山の岩かげに……」と歌う御ご詠え歌かの古こ布うの誓せ海か寺じというお寺へお参りしたとき、右う衛え門もさんと四よ方も山や話に興じていましたので、山や海みの岩い屋や寺じでは、大だ同ど3年、弘法大師が近ごろは、バスやハイヤーで訪れる人が多くなったのですが、自動車が少なかった時代には、菜なの花畑の道を、金こ剛ご杖づに白び衣え、同行二人と書かれた菅す笠がの人々の長い列が続いたものでした。「南な無む大た師し遍へ照じ金こ剛ご」と唱え、「ありがたや、コーラスが、のどかな風に乗って阿久比谷を流れました。知多新四国八十八か所霊場巡拝の順礼です。この新四国八十八か所を開いた人は、当町福住の人です。今から約百七十年ほど前のことでした。月以上かかる順礼のできる人は幸せだが、足の弱い老人や女のためには、知多で順礼できるようにしてあげねばならぬ……、そう考えた半蔵さんは、南から北へ、半島の寺めぐりを始めました。ちょうど住職の慧け等と和お尚しさんは庄屋の横よ井い嘉か半蔵さんも庫く裏りへ招じ上げられ、座談の仲間入りをしました。和尚さんも庄屋さんも、半蔵さんの念願を聞いて、できる限りの応援をしてあげようと言ってくれたので、半蔵さんはうれし涙にむせび、しばらく厄や介かになることにしました。この寺の奥の院で百日の護ご摩まを修行されたと聞いて、どうしても知多に八十八か所霊場を開こうと決意を新たにし、一層寺めぐりに精を出しました。亡なくしてしまって……。」ゃくょう華け経きを納めるためです。もちろん、四国の八文ぶ政せ2年、半蔵さんは古こ見みの妙み楽ら寺じの山門文ぶ化か6年3月18日の夜のこと、寝ている亮 ん わまいうっい け ゃんういこまん いい  いんく   と いるさげんうえ かいうんんい くらうもいい33「半蔵さ、悪かったのう、一時に嫁さと子を「ああ、長いこと子に恵まれなんで、待ちこがれておったに、かかも子も、いっしょに死んじまうとは……。」の下に生まれたものだと思いました。欲も得ともなくして、荒あ古この阿あ弥み陀だ堂どに涙のお籠こりをする日が続きました。見かねた庄屋の義ぎ平へさんは、そんなに一つ所に伏せ籠っておっては命を失ってしまう。妻子の菩ぼ提だを弔とうために各地の寺々へお参りに出かけてはどうかとすすめてくれました。礼の旅に出ました。六十六か国に書写した法ほ十八か所も巡拝しました。りがたさをつくづく感じました。四国での一ひをくぐりました。すると、この寺の住職らしい大柄なお坊さんが、にこにこしながら合掌をして出迎えているのです。「これはこれは、よくおいでくだされた。お待ち申しておった。さ、どうぞお上がり……。」口がきけません。とにかく言われるままに客殿へ通ります。が申します。「びっくりなさったろうが、これには訳わがござる。ま、一通りお聞きくだされ……。」となりました。宗祖弘法大師に対する信仰が厚く、常に南無大師遍照金剛と唱えながら厳しい修行に励んでおりました。山さんの枕もとに弘法大師がお立ちになりま福住の半蔵さんは、よくよく幸せの薄い星半蔵さんは菅笠・白衣に笈お摺づ姿で、全国順回国をしてみて、半蔵さんは弘法大師のあ半蔵さんは、きょとんとして、しばらくは出迎えてくれた妙楽寺の十三世亮り山ざ阿あ闍じ梨り亮山さまは今から十三年前にこの寺の住職第三十三話半蔵の発心121120

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