阿久比の主な災害(江戸時代)ょうかきょう っりちきいんん らつうびち んかん同の蓮れ慶け寺じの前に桟さ敷じを組んで開かれ、花火大会かれて矢勝川の堤防へ向かいます─。「おい、あれ見ろ。高た田だ橋から堤防へかけてえらい人だかりのようだぞ。」「あ、あの提ち燈ちは半田の警察だぞ。」「おい、こっちのは岩滑の消防と書いてある。それから、向こうのは半田と乙川の消防のようだ。」「畜生め、どうしても堤を切らせんつもりだな。ええ、いまいましい。」「とにかく、掛け合ってみようじゃないか。」「掛け合っても、聞くような相手か。」「向こうが向こうなら、こっちも考えがあるぞ。」にらみ合いは、長くは続きませんでした。次第に興奮した人々は、どなり合い、こづき合い、つかみ合い、とうとう鳶と口ぐや鍬が振り回され、鳶口で大古根の榊さ原ば勝か太た郎ろさんが頭に大けがするに及んで、双方に殺気がみなぎり始めました。これは大変なことになる─ここに至って警察も役員たちも、事の重大さに気づきました。阿久比の農民たちは、役員の必死の制止に歯ぎしりをしながら後退をせざるを得ませんでした。その後、役員の交渉があって、浜田橋のかかりで阿久比川へ排水することに決着し、水は次第に引き始めたのですが、その年の稲はすっかり腐敗してしまい、人々はぼうぜんと眺め立ちつくすばかりでした。さて、こうした騒動が契機になって、その翌年には、当時としては最新のセメントを使った阿久比樋ひ門もが建設され、完工祝賀式がに人々は興じ合いました。この工事を請け負ったのは、三河の服は部と長ち七ひという人だったそうです。この樋門は、現在は取り壊され、サイフォンに改修されています。同 同 同 同 同 同 同 同 同 一七〇〇~一八五〇の百五十年間分元禄14 暴風雨・堤防決壊大地震・倒壊家屋多数宝永3 夜大地震4 暴風雨・昼大地震(西浦の被害甚大)5 11月から五十日間、雪が降り続く享保2 雨長く降らず稲枯れる3 大地震・飢き饉き7 暴風雨・飢饉8 三日間暴風雨・作物の被害甚大矢勝川決潰阿久比川各所で決潰元文3 同右宝暦7 十日間雨が降り続く安永1 阿久比川各所で決潰・大洪水天明3 暴風雨被害甚大・翌年大飢饉6 降雨多く稲稔みらず・翌年大飢饉寛政3 暴風雨・家屋倒壊多数文政2 大地震・同右天保7 暴風雨・阿久比川決潰、大飢饉弘化2 嘉永3 同・倒壊家屋多数11911813 11 16
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