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なんでも今から百年ほども前のことだそうなが、椋む原はにどえらい大きなヤシキマワリがおっての、この大蛇が、また、性たの悪いやつで、そこら中の飼い鶏どの卵を飲んで回って、みんなもう閉口しとった。なにしろ、卵をいっぺんに五つも六つもぺろりと飲み込んでしまうほどでっかい体のうえに、蛇を殺すと七代たたるとみんな気味悪がって、だあれも手を出さぬ。それで、そのヤシキマワリ、いい気になって、わがもの顔でそこら中をはい回って、悪さばかり繰り返しとった。ところが、村のある男が、天て白ぱの「しんてつさ」に頼んで退治してもろたらどうやと言味み噌そをもらいに村を回るだけで、あとはガタい出した。とこだそうなが、そこにみんなが「しんてつさ」と呼ぶこじき坊主が、草ぶきの小屋を建てて住んどったんや。「しんてつさ」っていうのは、どげな字書くか、わしは知らんが、とにかく、その坊さん、いつもぼろぼろの衣を着て、托た鉢はだと言うて、時たま米やいもやビシの板戸を締めて、何をしているか知らんが家の中でじいっとしておる。だあれも口をきいた者はあらせなんだ。持っているかもしれぬ、まああんまり当てにならぬが行ってみるかと、それでみんな、ぞろぞろとつながってわら小屋へ出かけてみることにしたんだわ。「しんてつさ」は、相変わらずぼろぼろの着物でのっそりと小屋から出てきて、あごをぼ天白というのはな、今の丸山公園の南東のしかし、ひょっとすると、何かよい思案を方か三役(村役人)として行政に当たったが、村役江え戸ど幕ば府ふは、政権崩壊につながりかねないキリ出で稼かぎにいたるまで必ず届け出るよう義務づけ、たが、すべて農民の兼業であった。村内では、庄し屋や・組く頭が・頭と百び姓し(百姓代)が村む人には、本ほ百姓(自作農)の実力者でなければなれず、水呑百姓は、村の重要な会議に参加が許されなかった。  スト教信仰を根絶しようという名目で、鎖さ国こを断行し、寺て請うけ制といって、農民を強制的にいずれかの寺院の檀だ家かとし、出生・死亡・結婚から旅行・毎年寺院・庄屋に宗門改めを実施報告させて、農民を村に釘くづけにした。なお、社寺は寺社奉行の管轄であった。  また農民は、五世帯を一組として、相互援助や監視をし、共同責任をとらされた。組頭は、いくつかの組を支配した。農民の年ね貢ぐに財政源を頼っていた江戸時代の武士は、「慶け安あのお触れ書き」に見られるように、農民生活の細かい点にまで干渉し、自給自足の耐乏しらょうゃくょう んく ちりらくつく   んんいう  んい制ぎ ぎくかせんらくろわ33333わた  くんた みうら 生活を強しいた。せたが、現在に比して収穫量が極めて少なく、畑作、河川・山林下刈がりまで税をかけたので、農民の負担は大きく、特に水呑百姓は地主への納付分を取ると、残りはわずかで、常に貧困にあえぐことになった。  男は薦む織り・縄なない、女は機は織りに精を出し、雨天ばかりでなく、夜も夜なべ仕事に励んで家計の助けとした。また農閑期には、黒く鍬く・石工・大工・左官・米つきなどに雇われ、為政者には歓迎されなかったが、他国へも出かけ、横松大工・萩左官・宮津酒さ六ろなどと呼ばれたものである。  間の尾張徇じ行こ記きには総勢三百五十人以上出ていると記録されている。黒鍬とは土木工事者で、親方に率いられ、十数人が一組となって、三河・美濃・伊勢、遠くは京・大阪・堺へも農閑期に出かけ、農家の家計の足しにされたものである。年貢は五公五民といって、収穫の半分を納めさしたがって農民は、農作業のほかに内職として、出稼ぎの中で最も多かったのは黒鍬で、文ぶ政せ年しろゅん寺請け・宗門改め五 人   農民の苦しい生活組 内職夜業に出稼ぎ黒 鍬 稼 第三十話しんてつさ109108

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