江戸時代の村の暮らし天て道とさんが昇るときから沈むまで働き通しでて、すまんこった、少しは割り増しがもらえるようかけ合ってみると言っとったが、初めのうちは、夕方になると、ものも言いとうないほどくたびれたもんだった。こんなことだったら、宮津の衆のように酒屋へ米つきに行った方がよかったと思ったもんだ……。」「おまえは初めてだから、こたえたのだろうが、どこへ出で稼かぎに行っても同じことだぜ。人の仕事はよう見えるが、酒屋へ行くにはつ3なぎがなけりゃああかんし、第一、給金が安い。仕事はつらいが、日に四食、粟あ飯めでも麦飯でも食わしてくれるとこは、そうざらにはないぜ……。」「そりゃあ、そうかもしれん。おれもどうやらこの仕事に慣れたでのう。とにかく、早う帰って田打ちをせんならん。もみまきの準備もあるしのう……。」「九く兵へ衛えさあ。おまえ、さっきから黙って考えごとをしてるようだが、どうしたのだえ。ぱいだからのう。」「黒鍬へ出て、一日中もっこをかついで、およ、それで持って帰ったお銭あが借金で右左じゃあなさけねえが、これも仕方のねえことさ。」おまえはさっき金兵衛親方に、みんなより一足遅れて帰ると言っとったようだが……。」「若いもんなら、三河にかわいい子ができたからとも言えるが、おまえは女房・子持ちだ。みんな飛んで帰るというに、なんでそげなことを言うのだえ。」「……実はのう、みんなと違って、わしは春過ぎから帰っておらん。積もる借金に逃げるように家を出て、少しはまとまった金がほしいと正月も帰らずじまい。だが、春には宗門改めがあることだから、どうしても帰らにゃあならねえ。夜になってから庄屋様へご挨拶をして、それから、かかあに、子供の土みげ産と給金と米を全部渡して、人に会わねえうちにまた引き返すつもりだ……。」「おまえも気の毒になあ。としより二人が長いわずらいで、薬代はかさむし、看病で働き手が減るし、おまけに子沢た山さだ。お互いに水呑百姓は、なんでもねえ時でも食うに精いっ「まあ、明日は早立ちだから、もう寝ることにしようや……。」春のいぶきが漂い始めておりました。厳しい山や家がの夜の気配にも、ようやく甘い山や・植うの五郷だという伝承がある。稗ひ之の宮み(阿久比)、椋む原は・角つ岡お(以上椋む岡お)、矢や口ぐ・高た岡お(以上矢や高だ)、植う・大だ古ご根ね(以上植う大だ)、横よ松ま、萩は、宮み津づ、福ふ住す、板い山や、白し沢さ、草く木ぎ、卯う之の山や・坂さ部べ(以上卯う坂さ)当町内各地に村ができたのは相当の昔と考えられるが、最初は、稗ひ(之宮)(宮)津つ・福ふ住す・卯うの一般に阿あ久ぐ比い谷だ十六か村と呼ばれて、一つのかたまりとして扱われているが、村の名は次のとおりである。( なお、岩や滑なを入れて十七か村と言う場合もある。また、高岡村の西南に樫か木き田だ村というのが存在し、 後に本村に合流したといわれている。 戦国時代初期は、土豪や有力者が分割して領有)内は現在の大字名。長ちう12年同義よ直なが封ぜられるに及び、以降約三百年、元げ禄ろ時代まで、草木が藩の家臣清し水み甲か斐い守のの所入い地ち)として郡こ奉ぶ行ぎ、後鳴な海み代官の支配を受けるしていたが、織お田だ、豊と臣とと政権が移動するにつれて、当地の領主は目まぐるしく変わったが、徳と川が政権の確立と共に、尾お張わ国のへ徳川忠た吉よに次いで慶け当町内の各村々は、御三家の一つ尾張藩の統治を受けることになった。領となったり、他の村々も二人の代だ官かの分割支配を受けたこともあったが、その後は、全部公領(蔵くことになった。 るが、武士と工・商(町人)は城下町に集められ、村の住民は農民ばかりであった。もちろん、生活の必要上、鍛か冶じ職・建築・酒造・小こ商あ業ななどはあっ村が行政上の単位となったのは、江戸時代であくにょうおりかみ いきべしかまかみくやぎつこたまらわさ くやえらのかくかかかかちえいえいりるらんい くんず にえま えくみりしだいくわみよょおししうん333 まくん3や33せわし33333 阿久比十六か村尾張藩蔵入地村のしくみ107106
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