名 号 塔ゅく兵べ衛え親方も、こんな仕事を請け負ってしまっょう大だ樹じ寺じで説教をせよとお招きを受けたについんくし 黒鍬稼ぎ うろわんんんんんんうんんうくんんうきいおきんみよんいげま くんいゅいいどうにか皆の衆にお話を聞いていただける身となり申した。このたび、岡崎の殿様から、て、ぜひとも初めて出家した地でお話をさせていただきたくて、こうして参りましたのでござる……。」人々は、今天下にその名も高く、生き仏の再来と仰がれる上人の意外な話にびっくりもし、また格別の親しみを感じて仰ぎ見るのでした。徳住上人は満座の人々に、人間の宿し業ごの深さと念仏のありがたさとをじゅんじゅんと説き聞かせます。そして、師の徳本上人にならって、年中一枚の着物で過ごし、決して横になって寝ることなく、毎日十万遍のお念仏を唱えて在俗の人々の往生救済を祈っていると語り告げるに及んで、集まった人々は、そのありがたさに涙にむせび、いつのまにか手を合わせて念仏を唱和するのでした。─この後、徳住上人が再びこの地を訪れここは、山深い奥三河の粗末な板ぶきの作業小屋の中です。板壁の透き間からさし込んでいる月の光で、大勢の人々が土間にムシロを敷いて、重なるように寝ているのが見えました。枕もとには、大小二包みほどの荷物がそれぞれ置かれており、ほとんどはぐっすりと寝息を立てていましたが、まだボソボソと低い話し声をかわしている者もありました。「のう、作さ次じさあ。いよいよ明あ日たは阿久比谷へ帰れるのう……。」「うん、女房やガキに久しぶりに会えるなあ。帰り支度もできたし、なんとか喜ばせるだけることはありませんでしたが、人々はその説教のありがたさが忘れられず、浄じ財ざを出し合って、雲谷寺や観音寺などに六字の名号塔を建て、長くその徳をたたえたということです。米も給金ももらえたしのう……。」「正月もそこそこに黒く鍬くに出てきただが、阿久比とは違って、こっちは雪も深く風も身を切るぐらい冷たい。その中でのあの山畑を切り開く仕事は、今までになくつらかった。金きょう称し十万遍の誓願を実行、多くの大名・庶民の帰き依えを受けた。天て保ぽ13年名古屋光こ照し院いに没し、岡じむような学問と修行を続け、文ぶ化か12年念仏聖者徳本上人の教化を受けて、生涯単た衣え不ふ臥が、口く崎九く品ほ院いに葬ほる。高岡観か音の寺じの二世になっており、両寺等には徳本流名号塔が建立されている。政5年江戸増ぞ上じ寺じへ入寺、その後各地で血のに郎ろ。寛か政せ元年、父繁し右う衛え門もの希望で、当ょううむ村(現碧へ南な市)に生まれ、幼名角す谷や豊と次じ町雲う谷こ寺じで出家。寛ゅう徳と住じ上人は、安あ永えょう第二十九話105104─ 観 音 寺 ─6年三河碧へ海か郡大お浜は─ 名 号 塔 ─
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