禁 忌がねょうゅうょうりくだされ、こんなうれしいことはありませぬ……。」説教僧は、年のころは四十を越したばかり んんうっくくんうんん いつわおまくん んん うま 333ん33333う う んくん 徳住上人で、静かに、それでも隅々までよく通る声ででしょうか、長い苦行に鋼はのようにやせた体文ぶ化か14(一八一七)年の夏のことでした。く軒深い雲う谷こ寺じの本堂の中へは及ばず、ぎっしりと詰めかけた参詣者の群れの上を、涼しい風がかすかに吹き通っておりました。かおりと、人々のざわめきが漂っていましたが、仏壇のお燈と明みを背に一人の僧が着座すると、一座はたちまち水を打ったように静かになっていきました。「これはこれは、皆の衆。この暑い中をようこそお参りなされました。さすがにご信心深い阿久比谷の皆の衆、このように大勢お集ま語りかけます。「さて、皆の衆。拙せ僧そは徳と住じと申しまするが、このお寺や隣の観か音の寺じは、私にとって、まことに因縁浅からぬ大切なお寺でござる。」人は言葉を続けます。「実を申せば、私はこのお寺で坊さんにしていただいた。今からもうかれこれ三十数年も前のことでござったが、三み河か・大お浜はの父親のたっての願いに従い、この雲谷寺で剃て髪はし、観音寺には四~五年ほどおいていただいた、あの小坊主でござる……。」く声があちこちであがりました。「私は、ここで、真し誉よ上人様・千せ誉よ上人様のおかげで、最初の仏道修行をさせていただいた。十五歳のとき江戸の増ぞ上じ寺じへ上がり、それから、各地の寺々で修行をさせていただいているうちに、師匠の徳と本ほ上人様のお導きでかっと照りつける太陽の光も、さすがに広本堂の中には、長い法要の後の、よい香この人々の不思議な顔を見渡しながら、徳住上人々の中から、ああ、それでは、とうなず元げ禄ろ7年現在地に移転したと伝えられている。間信仰を禁き忌きと言い、各地どこにもあり、またその理由を示す伝説が多い。この地区で今もそら豆を作らない信仰は、作物禁忌の中に入るが、なぜ神がそら豆を嫌うのか、その理由ははっきりしないが、各地にある栽培禁忌を比較検討してみると、外来植物に関係するものが多く、本話もその一つと考えてよいであろう。また、こうした禁忌は、おそらく、他の家や地区と区別をして、その共同体の結束を固めようとする意図によって作られたものではなかろうかと考えられる。なお、本話に登場する権ご現げ様とは矢口の箭や比ひ神社のことで、当社は初め地じ蔵ぞ山やにあったが、特定の家やその同族・部落で、特定の行為をしたり、作物を栽培したり、食べたりすることを忌み、その禁をおかすとた3たりがあるとする民第二十八話103102─ 箭比神社 ─
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