HTML5 Webook
55/90

社寺の霊験わさがたつみゅうあいた柄杓がたくさん供えられていたということです。この天白地蔵さんは、最初、福ふ山や川がの上流安置しました。お地蔵様は、にっこり笑っているかのようでした。ところがある日、村の悪童たちがそこへ遊びに来て、このお地蔵様を抱き上げて、ずっと下流の福住の方まで持って行ってしまいました。村人たちは、「お地蔵様が消えてしまわれた」と大騒ぎをしましたが、次の朝には、ちゃんと天白の堤に立っておられました。「オー、このお地蔵様は天白がお好きとみえる。いっそ、ここへお祀まりしよう。」と言って、川の堤に小さいお堂を造ってお祀りしました。それからというものは、福山川の堤防も切れなくなり、だれ言うとなく「天白地蔵」と呼ばれ、お祈りをすると耳が聞こえるようになるという噂うが広がりました。なお、この天白の地には、以前から天白明神という神様が祀られており、こちらの方は、歯の痛いのが治ると言われていました。にある地蔵池という池の堤つの上に雨ざらしで立っておられました。て福山川へ流れこみ、川の堤防が切れました。「オーイ、また天白のところが切れたぞ─」村人たちは、手に手に鍬くや備び中ちを持って集まって来ました。「オヤ? れは地蔵池のお地蔵さんじゃないか。雨で流されなすったのに違いない。もとのところへお返し申そう。」と言って、みんなで地蔵池の堤へ安置しました。の堤が切れました。村人が出ると、またお地蔵様が泥にまみれて、切れた堤の下に横になっておられました。「オーもったいない。」と言って、きれいにお洗いしてもとの場所へ河川改修のため、地蔵様は安楽寺へ、明神様は県あ神社にお移しし、今もなお、人々から敬われています。ある年、大雨が降り、地蔵池の水があふれこんなところにお地蔵様が 次の年もまた大雨が降り、昨年と同じ天白その後何年かたって、明治6年神仏分離とを認め、人間への影響力やたたりを畏い怖ふする心情が強かったので、天神信仰などが全国に流布されたり、伝来した仏教も、その宗教哲理の実践よりも、薬や師し・不ふ動ど仏ぶ信仰や祖霊鎮魂が歓迎された。したがって、社寺草創の伝記にはこうした傾向のものが多く、本話もその一例である。天白地蔵尊の祀られる板山の安あ楽ら寺は、曹そ洞と宗に属し、文ぶ禄ろ2年洞と雲う院い二世久き山ざ昌し察さ大和尚を開山として創建され、地蔵堂は大正13年再建、なお、本堂・庫く裏り等は今年秋再建されている。医学が現代のように発達していなかった時代には、宗教が医療にかかわる度合いが高かった。特にわれわれの祖先は、すべてのものに霊力ゅうょう地蔵さんのいわれ9594─ 安 楽 寺 ─  つうくんんつんん くうんううくつ333    こ くまわわっ 

元のページ  ../index.html#55

このブックを見る