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ゅう信の長なの奇き襲しにあって桶お狭は間まの露と消えてしょうむらゃくたいしろいんかき─いんいうんつ くいがぶけざうんう んいいんまん ぐ まくん けんうかぼ面かんるいゅまわしときなょう分の家の井戸から桶おをかついでは柄ひ杓しで一株ずつ水を与えていく姿が各所で見られたのですが、その井戸も底を見せ、今では飲み水にも事欠くありさまとなってきました。いずれ、つけ木を持っていったら、たちまち一面に燃え上がってしまう日も近いように見えました。 ─福住村の庄屋杢も左ざ衛え門もは、屋敷に詰めかけた村人たちを見回しながら、額ひににじむ汗を拭ぬい、また語りかけるのでした。「去年は大変な大雨で堤防が切れ、ひどい痛手を受けたというのに、皮肉なもので、今年は一粒の雨もいただけぬ。世の中というものは、まことにままならぬものじゃ……。」「さて、皆の衆。うすうすは知っておると思うが、あの『雨あ乞ごいの面』は、わしの先祖が不思議なご縁で手に入れた、まことに霊れ験げあらたかなお宝なのじゃ……。」違いない。」思わずおしいただいて、感か涙るにむせびました。彼は、この「翁の面」を大切な家宝として永く子孫に伝えたいと考え、他人には漏らさず、家の奥深く秘蔵することにしました。ところが、永え禄ろ3年の夏、今川義元は織お田だまったため、祢宜左衛門さんは浪々の身となりましたが、草木村正し盛せ院いのご開山快か翁お禅ぜ師じ様が桶狭間の戦死者の弔といに来られたのがご縁で、祢宜左衛門さんは福住村へ「翁の面」を捧げ持ってこられ、同僚の近ち崎ささんは草木へ移り住むことになりました。それで岡戸の家では、祢宜左衛門さんを初代様と敬って申し上げることにしていました。─「先にもお話したように、初代様はこのお面を子々孫々わが家の宝となさるおつもりでおられたようだったが、その死後、二代目様は、物が物だけに、粗相があっては申しわけがな「わが家の六代前に当たる岡お戸ど祢ね宜ぎ左ざ衛え門も様と申すお方はの、三州は中な窪くの出で、武術ばかりでなく、芸能にも堪た能ので、殊に能楽では世に聞こえたお方であった……。」公に大変気に入られ、お側衆として重く用いられていました。へお参りしてくるよう命じられました。祢宜左衛門さんは、ふと何か舟べりへ漂い流れてくる物を見つけ、つと手を伸ばして拾い上げてみると、それは小さな「翁おの面め」でした。なぞのようなほほえみを漂わせたそのお面は、彼が今まで手にしたいくつかの名工の面のどれもが及ばぬ逸品でした。「これは、おそらく、竜宮城からの賜り物にいと、先代様の三回忌に、その面を持参してお寺へ参られ、どうかお預かりくだされとお願いもうされた……。」と申され、寺の中興と仰がれたお方でしたが、お面の由来を聞かれて、それでは鎮守の神宝としてお敬い申すのがよかろうと教えられた。村人も、神面は竜宮城からいただいたものゆえ、お社やの宝として祀まられれば、日照りのときに雨を恵んでくださるに違いないと喜び合いました。「わしも、皆の衆の難儀を見かねて、実はの、先日こっそりとお寺へご相談に上がってみたのじゃが……。」当時の住職円え戒かさんは、しばらくの間黙っていましたが、しわがれた低い声で、実は寺伝に「みだりに神面を用いれば、かえって大いなる災いを受けん」とあり、自分はまだ修行 ─それで、仕官した駿す河がの大た守し今い川が義よ元もある時、殿の代理として、海路、三み島し明神舟に揺られて、東へ海岸沿いに行くうち、 ─当時、福住村の興こ昌し寺じの住職は隣り堂ど様 ─庄屋杢左衛門の来訪を受けた興昌寺の翁  の  8988

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