一向一揆ょうょう信長に強い遺恨を持ってもいましたので、大おを決意したのです。それだけに、石山での奮ふ討ち死にや負傷者が増え、その落ち着く先が見え始めていました。て、勅使が大阪へ下向してきて、朝廷が仲に入るから今のうちに和を結べと伝えました。た。再び長島や比叡山の悲しみを繰り返してはならないと。介を受け入れ、門徒宗を解いて、自身も紀き州しす。も父に従いません。門徒宗の中にも、数多くの人々が光寿に従いました。もちろん、阿久「ご家老っ、一大事でござるっ……。」髪を振り乱した急使が一騎、息絶えだえに城門を駆け抜けて飛び込んできてから、阿久比谷坂部城は、城兵総立ちの後、深い悲しみと決死の思いに包まれました。が、天て正しう5年7月19日、大阪の四し天て王の寺じで無念の切腹をさせられ、城取りつぶしの佐久間軍がおし寄せてくるというのです。ょうゅうゅんょうゅう織お田だ軍と本願寺門徒衆の戦は、長く激しい康やの巧みな鎮圧で一年間で終わったのに対し野の軍に破壊されて野に下っていた柳り審し城じの家ょう欣ご求く浄じ土どの意気に燃えて決死の戦に臨み、6さまざまでしたが、皆、目をキラキラと輝かせておりました。宮津光こ西さ寺じの院主教き円えに率いられた聞も行ぎ寺じ(東光寺)・蓮れ慶け寺じ・光西寺に属する阿久比谷の門徒たちは、いったん亀崎の浄じ顕け寺じに集結し、 そこから船で、大阪の石い山や本ほ願が寺じへ向かおうとしておりました。ものでした。この時より十五年前の永え禄ろ5年に三み河か一円を荒れ狂った一向一揆は、徳と川が家いて、比ひ叡え山ざ焼き打ちを敢行したほどの信の長なは、一揆を殲せ滅めしようと、長な島しでは女・子供まで殺してしまうという激しさで、信仰に殉じじることを本望と考える一向宗徒と真っ向から対立しました。信仰心の厚い阿久比谷門徒衆の中には、水み臣がおり、その人々は、水野の後にいる織田比谷の門徒宗もその中におりました。人々は月21日には感状を受けています。けれども、劣勢となった本願寺の敗退は覆うべくもありません。結局、その年の7月、光寿も降ります。阿久比谷の門徒宗の何人が故郷へ無事戻ることができたか、その記録は残っておりません。野のの光こ明み寺じの呼びかけに応じて、大阪へ出陣ょう闘とはまことに目ざましいものがありました。ゅん鷺さノ森に引きこもり、後を次男准じ如にに託しまゅうょう織お田だ信の長なの家来、佐さ久く間ま信の盛ものざん言で、石い山や本願寺攻めに参戦していた城主久ひ松ま信の俊としかし、織田は大軍です。次第に門徒衆の天正8年閏うう3月のことです。事態を憂慮し本願寺の門主光こ佐さ(顕け如に)も悩んでいまし結局、光佐は、朝廷の仲しかし、長男の光こ寿じ(教き如に)は、どうして坂部城には、城代坂さ部べ藤と十じ郎ろの指揮で、わ伊い勢せ長な島し・三み河かなど各地で、大名に対して一い揆きわまがっんんましちん んんょん かううょんんうましさつぶし がぶぶり 報 んん ず ゅうょぎょつんがまんいぶが─ るしまんんんす うんょわくわえいくいん いうんんうんうお強い信仰による結びつきと戦闘力を持ち、戦国末期には石い山や本ほ願が寺の指令を受け、越え前ぜ・加か賀がを起こし、その力は大きなものであった。親し鸞らの創始した浄土真宗(一向宗)は、八世蓮れ如にの代から急激に広がり、他宗派のように豪族と結ばず、院主を中心とする教団組織として、悲 第二十二話姥 ケ 谷8180─ 光 西 寺 ─
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