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弱肉強食の世しろ川がと通じ、四し面め楚そ歌か・援軍も期待できぬ……。天て正しう5(一五七七)年の春のことです。崎ざの港でござる。目立たぬよう、おのおの急が鋭意経営に心血を注いでこられたこの城も、今はその命運が極まった。久松殿もすでに緒おわしが非力で、手を打てなんだばかりに、そなたたちをここまで追い込ませてしまった。まことに済まぬことじゃ……。」「殿っ、何を仰せられます。われらも柳審城の武士、たとえかなわぬまでも、城門を開いて決戦をいどみ、全員城を枕に、殿の御お後あをしたって討死の覚悟でござる。軍使の開城の条件には、この城を取り壊せとござりましたそうな。父祖代々がお仕えし、朝夕仰ぎ見てまいったこの城を破却せよとは、あまりの言い分でござる……。」「いやいや、そなたたちの忠節、わしは忘却せぬ。しかしながら、わしの身はどうなってもよいが、そなたたちだけは生き延びてもらわねばならぬ。ご先祖様には申し訳なきことながら、城よりもまず人じゃ。ひとまず恥を忍薄暮を迎え、周りの小松の枝がねずみ色の空に溶けこもうとしているとき、宮津の裏山づたいを、屈強な人々が三々五々東への道をたどって行きました。人々は、古びてはおりましたが、皆、胴丸で身を固めた上に野の良ら着ぎをはおり、槍やや旗は竿ざに大刀を添えて、蓆むで巻き包んだものをしっかりとかかえ、その総数は四十~五十人はいるでしょうか、ひたひたと歩を進めておりました……。「のう、皆の衆。目指す先は、ひとまず、亀かんで、野やに再起の日を待とうではないか。」みな泣きました。包まれ、その跡は、むなしく夏草が生い茂るのみとなりました。がれよ。」途中に立った僧形の男が、通り過ぎていく群れにささやきかけます。行く者、南な無む阿あ弥み陀だ仏ぶと低声に念仏する者、「院い主じどの、心得申した。」と応ずる者など、声涙共に下る主君の決意に、城中の将兵はこうして、永い伝統を持つ柳審城は火炎に声をかけられた人々は、黙々と頭を下げて拠よった新し海か氏は、水野軍に一蹴され、城を破壊と同盟を結んで生き残ったが、宮津柳り審し城じにされることになる。なお、宮津の光こ西さ寺じには、柳審城古絵図の模写が残されている。新海氏は、その系図によれば、菅す原は道み真ざの四男淳あ茂し(英比麿)を遠祖とし、十三世淳あ英ひが宮津に築城したと述べているが、系図の史料としての扱いは久松系図で書いたとおりである。拠きして争い、強い者応お仁にの乱後、天下ゅうょうは麻あの如く乱れ、各地に大小の豪族が割かが生き残っていくことになった。久ひ松ま氏は、いち早く水み野の氏第二十一話阿久比門徒の奮戦7978─ 柳審城趾 ─  ょんりたおきゅんめつ  んとげつつで がらちねういいんんずさつょっさ んう んわ 

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