連 歌んらたんうくつき んんうきうんつでんんずうん り んさつい くらんんんい時は天て文ぶ12(一五四三)年7月の初め、新し海か城から見渡すと、なだらかな丘や谷は、寄城は水野軍に取り巻かれて、すでに二日を ─おもむろに床し几ぎに腰を下ろした軍使は、 ─別室に軍使を控えさせてから、広間にゅうょうょうょうるようにして歩く椋む原は氏に案内され坂部を去って行った里村紹巴の努力のかいもなく、東大寺が松永勢に攻められ大仏様が焼け落ちたことをお大が知ったのは、この年の秋10月末のことでした。淳あ尚ひの拠よる宮津の柳り審し城じ内なでは、複雑な沈黙に包まれておりました。「殿っ、また軍使でござるぞ」せ手の水野軍の旗差物で埋まっており、城内からは蟻あ一匹はい出すすき間がありそうにも思えません。ちょうどその時、南東の田の間から曲がりくねって伸びてくる道を、白旗を高く掲げた武者が一騎、ゆったりと登ってくるのが見えました。経ております。野山をおおう大軍を迎えて、城兵は無謀に討って出る愚を避け、城門を閉ざして、頑がとして防いでおりました。大声で口上を述べ始めます。「これは、水み野の右う衛え門も大だ夫ゆからの使者でござる。さて、使いのおもむきは、これ以上無益な抵抗はなされず、いさぎよく城門を開かれよ。わが殿には、熱田社ゆかりの名門をここに断絶させるに忍びずと申されてござる。この旨、ご料り簡けあってしかるべしと存ずる。」さらに少し声を落として、つぶやくように言った。「坂部城の久松殿は、すでに好よしみを結ばれましたるぞ。」「あっ。」と列座の城兵は息を呑のみました。将兵を集めた淳尚は申しました。「元げ寇この役えで殊勲を立てられた第十三代淳あ英ひ様が築かれてよりこのかた、代々のご先祖様古こ刹さであるが、ここに秘蔵される杜か若つ連歌は、次第にたしなむ人が少なくなった。坂部洞と雲う院いは久松氏の菩提寺で、歴代の墓所があり、お大の方の遺品、回りの地頭などを蔵し、お大の方の始めたと伝えるオセンボウで有名な里村紹巴自筆の文学史上貴重なもので、当町文化財調査報告第一集「阿久比の連歌」(昭50)で、白沢八幡社蔵「北き原は天て神じ法ほ楽ら連歌」と共に紹介されている。連歌は室町時代から元禄時代にかけて中央・地方の有力者や文化人に幅広く行われたが、その後、むつかしい作法や約束ごとがあるため、ばた第二十話柳審城の落城7776─ 洞雲院山門 ─
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