ゃくかずきょうゅうのくう かなんくゃんわ うりししのたうん たんつい い ゅいっげんいくん ぶとうゅうょう亭て主し無仁斎正勢の思いきり発ほ句くと離れて詠蹴けまりと能と連歌でございます。百姓出の私んだところがよかったのでしょう。挙あ句くは執筆の満重がたくみに賦ふ物もを詠ういこみました。のことでした。翌19日、水野氏の人々の止めるのを振り切るように緒お川がを立ち、一行が坂部城の離れに着いたのはお昼近くでした。紹巴が脚き絆はを解き汗をぬぐうのを待ちかねるようにして、はるばるついて来た生い路じの長坂弥左衛門が口を切りました。「奥方様、どうかお師匠さんを引き留めてください。あれほどここが気に入ったと言われていたのに、急にお帰りになると申されるのでございます。」長坂弥左衛門守勝の顔には、明らかないらだちの色が表われておりました。ゆっくりと茶をすすり、紹巴はお大の方をおさえるように話し始めました。「今川様には、三つのお宝がございました。には、蹴まりのことはわかりませんが、能と連歌は本物でございました。特に連歌は、近こ物ぶで通っている人の口からも卑ひ猥わな発句が飛ゅう衛え中ち将し義よ教の様以来のもので、ここにこうして〽たえぬ流れのしるき山もと「お見事でございます」思わず叫んだ紹巴の声の後は、「そもそも、百ひ韻いと申しますのは……。」という型どおりの挨拶があり、後は無礼講となりました。宴も盛りあがり、人々は盃さを重ね、日ごろ堅かび出し、武名を駆せる人々も正体を失い酔いしれていきました。と客人の喧け騒そを眺めながら、ゆったりと解放感にひたっておりました。た連れ歌が師の里村紹巴が京都に帰ると言い出したのは、盂う蘭ら盆ぼの二日後の永え禄ろ10年7月18日ご厄介になったのも、もとは私めが、宗そ長ち様のお跡を尋ねようと思い立ったためでございます。」聞く者に有う無むを言わせない強さをもって、紹巴のことばが続きます。「ご簾れ中ちさま、どなたがここにみえるのでございますか。能楽師の岡お戸ど様もそうですが、連歌の方にも、今川様ゆかりの由緒あるお方がおみえのはずでございます……。」「ほんの田いか舎者の連歌じたてでございますのに、そのように申されますとはずかしゅうございます。それより、何がお気に障ったか存じませんが、このお大も、いま暫くのご滞在をお願いいたします。」ら、興こ福ふ寺じからの使いがあり、帰らなくてはならなくなったわけを告白し、右足を引きず協力して大作を仕上げた満足感と連帯感でお大だの方も、接待のために動き回る女たち半年近くも、水野信の元ものもとに逗と留りしてい永い沈黙のあと、ハラハラと涙を流しなが椋原という人7574
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