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久松第十八話氏と伝通院時は天て正しう10(一五八二)年6月の半なば、大お野の街道を東に、蓑み笠かで身を包んだ十人あまりの武士の集団が、主君らしい、かっぷくのよい人物を前後左右用心深くとり囲んで、ひたひたと歩みを進めておりました。「殿、大野の港へ上がられましたは、まことにご賢察でござりました。噂うでは、先回の例を聞き知ったか、明あ智ち方は間か者じを常と滑なの港に張り込ませておりましたとか……。」「そうか……。しかし、実はのう、そちも知っていようが、この地は余の生母の再嫁先で、んで尋ねてまいったなつかしい所ゆえ、ここょう桶お狭は間まの戦いの直前、元も康やであったころ、忍断だはなりませぬが、なんとのう心安まる気がだけは無事通してくれるであろうと思ったまでじゃ。」「さようでござりましたな。そういえば、油ゆいたしまする。……さて、これより、いかがいたしたものでござろうか。」「本ほ多だ、余は成な岩わの常じ楽ら寺じへひとまず入り、そ  久 松 (英比麿)の子孫にあたり、尾張守護斯し波ば氏の被官であった道み定さが阿あ古ぐ居いを領したが、その後、一いいたという。久松氏の系図については、久松家譜(洞雲院開基家系図)、浅羽本系図等もあるが、大名の系図作製に際しては、徳川氏をはじめとして、その遠祖の設定に苦心が払われたように伝えられている。坂部城は天正5年7月、佐久間軍の攻撃で灰か燼じ藩は翰か譜ふによれば、久松氏は、菅原道真の孫雅ま規の色し氏から後継者が入り、定さ益まに到って坂部城を築さのざけとすけんゃこべ ょんかおらんくん いん  きだすだちっ院氏 んんさりわさに帰するが、お大の方が生んだ子たちとその子孫は、将軍親政体制の確立と共に、神君家康の異父弟、その子孫として、松平姓を名のり、御三家、御三卿に次ぐ重要な一族として処遇された。   成の映画「ここに母ありて」で紹介されているが、戦乱の時代にあって、徳川家康に大きな影響を与えた生母として、江戸時代はもちろんのこと、現代でも、史書・文壇にしばしば登場している。伝 通 伝通院お大の方については、昭和57年、本町作お大の方が当地に在住したのは、約十五年であるが、家康が坂部へ来訪したのは、永生母お大の方に会い、その三人の異父弟に対して、自分には兄弟がないから、この弟たちに松平の姓を名のらせ、連枝の扱いをしようと語ったといわれている。お大の方は、落成したばかりの城で死亡、遺体は江戸に送られ、盛大な葬儀のあと小石川の伝通院に葬られたが、洞雲院にも遺品と墓所がある。禄3年5月17日で、久松宅に一泊して舟 橋 の 姓7170

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