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ょう実じの子として慈しみ、後事を託した久松信の俊と福ふを祈ろうとしたわが身……。 くんうんいう  つぶし  いみみう とすなだののみつ うういういん しううく い ょうるじとみおりょう守かに、甥おの水野勝茂は日ひ向う守かと、皆一国一城ばさがのの豪華な一室に、静かに横たわっておりました。関が原の戦いによって名実共に天下の棟と梁りとなり、内大臣に任ぜられたわが子家康に2月に招かれて京を訪れていたお大の方は、内大臣の生母として後ご陽よ成ぜ天皇に閲し、高こ台だ院い(秀吉の正室ねね)にも会い、子や孫に手をとられて京き洛らの見物を楽しんだのでしたが、7月の半ばに病び臥がの身となったのです。家康はじめ、それぞれ一城の主あとなっている子供や甥おたちの百方手を尽くしての医療看護も、朝廷の思し召しによる社寺での平癒ゆ祈願も、彼女の七十五歳の定命を延ばすことはできそうもありませんでした。枕もとで息を詰めて見守っている人々の目をよそに、静かに瞳ひを閉じているお大の方の脳裏には、彼女の波乱に満ちた人生が走そ馬ま灯とのようによぎります。─今川義元の討ち死に後、岡崎城を取り戻した家康は、西に郡ご城主となった夫久松俊勝や忠誠二なき岡崎衆の決死の働きで、荒れ狂った一向一揆も甲州勢の怒ど涛とも切り抜け、次第に頭角を現していった……。しかし、天下を取った信長は、お大の願いをよく聞いてくれた兄水野信元を、こともあろうに、わが子家康に命じて殺させ、また、をも大阪四天王寺で切腹させた。幼い二人の孫を呑のんで焼け落ちていった坂部城……。─そして、あまりにも誠実なるが故に、信長と家康の仕打ちを怒り、長い流る浪ろの末に憤死した夫の俊勝……。ただちに黒髪を切って、伝で通つ院いと号し、愛する夫や亡き人々の冥めその後、幾度かの死地を切り抜けていく家康に乞われ、岡崎・浜松・駿府と、生母として居を移して行ったのだが、その家康も今では、天下の大御所としての貫禄を備えてきている。の主ばかり。傷心の身を夫の翼つに抱かれ、多くの幼な子に囲まれながら、必死になって岡崎に残した子を思い、仕送りを続け、血書までしてきた、あのころが、あの阿久比の里が、私にとっては、いちばんなつかしい……。く尾を引いていた庭の松の枝影が、ひそと揺れたとき、お大の方は深々と沈んで行く意識の中で、思い出深い坂部城の一室に、夫俊勝に寄り添い、幼な子をあやしつつ、若武者竹千代と談笑している自分の姿を見て、にことほほえんでおりました。 ─もう、私の手の届かぬ存在となった。坂部城で生んだ康や元もは因い幡ば守か、定さ勝かは隠お岐き ─もう、私は用のない身となった。思えば、十五年の短い歳月ではあったが、物音一つしない病室の明かり障子に、細長6968

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