かつき ょいし 影 ういんんね としわまかお× つ んんうたみ× 今い川が義よ元もの命令で、だれの目にも無理と考にし縁えの薄い母子は、言葉もなく、あいさつもておりました。しかし、その彼女にも、薄幸の子の面影がいつもまぶたの裏に焼きついて離れませんでした。涙の別離から、すでの十六年。熱あ田たから駿す府ぷへ、久六・久蔵や、玄げ応の尼にとなった母お富との方かを通じて、さまざまな品を届けてはきたものの、長い年月、一度も会い、抱くことのなかったわが子が、戦乱の敵地であるここへしのんで来てくれた─。涙のあふれるまぶたの裏で、ふと兄信元の顔がよぎって去りました……。 × × 元康は、両手を畳についたまま、ただひたすら母の顔を見つめていました。駿府で世話になった祖母の顔から想像していたとおりの母の顔が目の前にある。えられた大お高だ城への兵糧の運び入れを成し遂げ、明日の総攻撃を前に、ひと目でもよい、まぶたの母に別れを告げたいと、敵味方と別れた伯お父じのはからいで、わずかな手兵と駆けてきた元康だったのです。よちよち歩きに、よく転んでは泣いた、ずんぐりとした体で丸顔の竹千代が、こんなにりりしい若武者元康となって自分の前にひかえている。お大の方は、体を小刻みに震わせながら、「……お子が生まれましたそうな……。」そう言っただけで、きらりと光るしずくを、膝の上で固く握りしめた手にしたたらせました。忘れて、ただ見つめ合うばかりでした。時間がない─。お大の方は、一心にわが子の食事を調え、元康は、黙ってそれをかきこみ、母も黙って見つめておりました。そのとき、別間から、むずかり泣く乳飲み子の声が聞こえました。× × 慶け長ちう7年8月28日、お大の方は、伏ふ見み城中「母上、元康には兄弟がおりもうした。どうぞ、お子たちをこれへ。」でうながす元康にちらとほほえみかけて、いそいそと立ち上がります。 に染め始め、菩ぼ提だ寺洞と雲う院いでつき鳴らす鐘かがいんいんと暁あを告げておりました。おきなく城門を離れようとしていました。そして、ひっそりとたたずんで、いつまでも騎影を見送っているお大の方の傍らには、戦場では命をかけて相戦うことになるやも知れぬ俊勝のたくましい体が、そっと寄り添っておりました。お大の方は、はじめてわれにかえり、笑顔× × × × ─短い夜はすでに東の丘の陵線をかすか元康は、総攻撃に臨む張りつめた心で、心松 6766
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