戦国期までの阿久比 33333けん33333 まやか 333333333333333いし ─ゅ いとずさな嘉か右え衛も門んに頼んで、北の丘を背にした草庵をおり西に郡ごの城へ移っていき、わが子信俊が坂部城戦国の世の女の悲しいさだめです。「すまぬ。許してくれ……。」「……弥九郎さまを何とぞ……。」二人の間に短い言葉が交されました。泣いて泣きくれた後のおかんさまの顔は、能面のように青く澄んでいました。─おかんさまは、庵の前の風にそよぐ一むらの草かげで、南の方へ目をやっていました。激怒し、坂部城へ軍兵をさし向けようといきり立つ宮み山や城の父に、〝私のお腹なを痛めた信俊がいます〟とすがったおかんさまは、まだ若い身そらで、緑の黒髪をおろし、草木の池い田だ建ててもらいました。未み練れと言われようとも、坂部城に少しでも近いこの地に、仏に仕える身を置いたのです。おかんさまは、昨日庵を訪おれた村人たちの話を思い起こしておりました。「今度お城へ来られたお大ださまは、三州岡崎のお城へ竹千代さまという幼お子ごを置いておいでたそうで。」「それで、坂部のお城では、信俊さまを実の子のようにかわいがられ、ヨチヨチ歩きの信俊さまも、お大さまの行く先を追いかけられるそうな……。」一時は、この身の幸せを奪ったお方と憎しみに燃えたあのお方も、実はわたしと同じ、悲しいさだめを持った戦国の女であった……。今となっては、温い親しみを感じて、かの女の涙をつづれ合わせたような真珠の珠じ数ずを巻いた白くか細い手を合わせて、南に向かって祈るおかんさまでした。そして、十数年の歳月が流れました。坂部城の久松俊勝とお大の方が、成人して徳川家康となった竹千代に招かれて、三河の主のあとを継いで、実家宮山城から姪めを奥方に迎えたという便りを聞いて、一人の若い侍尼にとわずかな村人に見とられただけで、四十一歳の短く悲しい生涯を閉じました。しかしその顔には、わずかな笑えみが安らかに浮かんでいました。戦国以前の当地に関する文献は、伝説的なものを除いてはほとんどなく、今後の研究が待たれるが、和銅2年、地名に佳字を用いよということで英比と書かれ、英比郷の中心となった。初め公領であったが、平安期には皇室の荘園となり、英比荘と呼ばれることになるが、北部は皇室領・三宝院領・熱田社領など、転々と移動し、南部は長く熱田神宮領であったらしい。鎌倉時代には、実質は地頭小川氏の統治を受け、室町期は斯し波ば氏、次いで一色氏の領有となるが、次第にその被官が台頭し、坂部に久松氏、宮津に新海氏が勢いをふるうようになった。本話は、大野に勢力を伸ばしてきた佐治氏の姫が、小川水野氏の南下の犠牲となって坂部城を離縁される哀話だが、前町誌では、おかんさまを大高の水野大膳娘とし、他に正盛院開基お弁の方とする説あるも、知多郡史説に拠った。5958
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