たいおり「おかんさまは、お気の毒だなあ。」「そうよ、何不自由のない、幸せな奥方さまと思っとったのにのう……。」建てられて間まのない草庵を眺めながら、草木村の人々はささやき合いました。やせた松が数本、ひょろひょろと立っていうな子にも恵まれ、いつも、城も里も春霞かに包まれたかに見えました。─ところが突然、二人の間に冷たい突風が吹き込んできたのです。産後のなまめかしい女房の色を見せはじめたおかんさまが、居間で無心に眠るみどり子に、静かに風を送っているとき、表の城の座敷では、若い当主俊勝が家老の坂さ部べ藤と十じ郎ろと二人きりで冷たい沈黙の中で対座していました。俊勝は、青ざめた額ひに縦皺しを寄せ、畳に鈍く目をやっています。「……殿、いかがなさるご所存で……。」「……うむ、右う衛え門も大だ夫うどのより使者のおもむき、緒川に一味することは、それはよい。だが、おかんを離別することは、ならぬぞ。」「なれど、お味方の証あしとして、妹御ごさまを送られる所存の由、それをお断りなされてはまずうござる。」「………。」雛びのようだと、城下の者は喜び合いました。すみゅう刈か谷や・緒お川が城主水み野の信の元もは、知多半島の南下る丘を背にした庵いの周りには、一面の枯れ草が風にそよいでいましたが、それでもその根元に数株のすみれが、ひっそりと紫の花をのぞかせていました。方でした。大お野のの宮み山や城主佐さ治じ家の姫君として生まれ、特に望まれて坂部のお城へ、美しく長い行列で嫁いできました。実直な武将で、二人並んだ姿は、まるで内だ裏りそして間もなく、弥や九く郎ろ信の俊とという、玉のよ「あちらは、今、日の出の勢い。すでに有脇・板山へ進出され、福住・草木もうかがっておられる。攻められたら、この城、ひとたまりもござるまい。われら家臣どもの行く末ごときは慮外のこととしても、道み真ざ公より連綿と続く御家柄を、殿の御代に失わせられましては、ご先祖さまにいかが申し開きなさるか。」「………。」を決意し、岡お崎ざから出戻りの妹を嫁がせることを条件に協力を要求してきたのです。一戦を交えてみたところで、しょせんは玉砕させられる大軍です。か いんきかぶずわりとわ さだかうう33333 ちね うぶし い なまやお さつしつきおうん んんいんいいつんんくん りわいんんういずださかまたけも、結局は、老臣たちの言うとおり、お家のためには、はかないきづなでしかなかったとは……。おかんさまは、坂部城主久ひ松ま俊と勝かの若い奥青年の夫は、由緒正しい家柄にふさわしく俊勝は苦しみました。父忠た政まの急死を機に、織お田だ氏と手を結んだ好いて好かれて、かわいい子までなした仲快か翁お禅ぜ師じは、文ぶ明め11年、緒お川が・刈か谷や城主水み野の忠た政まの家臣中な山や又ま助すの次男として緒ょう和お尚しの後を継ぎ、大お脇わ村曹そ源げ寺の建立に尽力した。川村に生まれた。緒川の水野家菩ぼ提だ寺乾け坤こ院いで出家得と度どした後、三河西せ明み寺の実じ田で当町草木の正し盛せ院は、天て文ぶ12年、水野忠政の娘の志を受けて、当時天台宗の小寺を曹洞宗に改め、禅師が開山として建立したものである。その後、竜光寺・浄土寺を末寺とし、明治初め接収したが、仁王像は文化財に指定されている。なお、岡戸・知崎姓の家は、禅師の徳を慕ってこの地に土着した今川方の子孫とも言われている。ょうょう第十五話おかんさま5756─ 正 盛 院 ─
元のページ ../index.html#36