HTML5 Webook
35/90

ゅうゅうょう時は永え禄ろ3(一五六〇)年5月20日の昼下がりでした。昨日のできごとは夢だったのかと思うほど、 穏やかな夏の日ざしが、まだ雷雨のあとを残す大地に照りつけていました。ここ桶お狭は間までは、引きちぎられ、土足に踏みにじられた幔ま幕まや旗は差さ物もなどが散乱している中で、大勢の百姓に織田・今川の足あ軽ががまじって、汗を流し、よろけながら、大きく掘られた穴に、戦死者の死体を引きずってきては投げ入れておりました。その傍らでは、多くの役僧を従えた、白く長い眉ま毛げの老僧が、手を合わせ、数じ珠ずをもみ鷲わ津づ・丸ま根ねの二城を落としたという報告に清き州すで待ち構えているはずの織お田だ信の長なの姿なゆゅう   よぶが ざけたくんしのんちしるるしわましとろ 快翁禅師 くいううんういかんいんういんうわんんん おき ん っりいけん利り新し助す・服は部と小こ平へ太たの手で義元の首級はあげ盛せ院いの開山となられた方です。ながら、ねんごろに読経をしておりました。「快か翁お禅ぜ師じさま、御大将の塚つを築き終わりましてござる。」「おお、それはご苦労でござった。ならば、ご回え向こを仕まつろうかの。」老僧は、木の香りも新しい大塔と婆ばの建てられた、ひときわ高い墓へ歩み寄ります。号令しようとした今い川が義よ元もは、尾張方の出で城じ、すっかり気をよくして、この桶狭間でゆったりと休息をとっていました。近き習じに大団う扇わで風を入れさせながら、彼の脳裏には、すでに、どはありませんでした。鋭い稲妻と雷鳴が交錯する中で、突然西のがけから、信長を先頭にする二千ほどの兵が、喚声をあげて一気に駆け下りてきました。わずかな近習の必死の警護のかいもなく、毛もられてしまったのです。れました。まるで悪夢を見たような一時でした。戦場には、今川方の無惨に踏みにじられた旗差物と塁々たる死体が横たわり、その数は、三千とも四千とも言われました。首を丁重に駿す府ぷに返し、さらに戦場に、義元の塚と千人塚を築き、死体をねんごろに弔わせたのです。の曹そ源げ寺を建立し、緒お川が乾け坤こ院いの住持ともなった快か翁お竜り喜き禅ぜ師じという高僧で、草木の正し四万余の大軍を率いて京都に上り、天下にその時、一天にわかにかき曇ってきました。この不意討ちで、今川勢は大混乱に陥り、それは、全く一瞬のできごとのように思わそして、その翌日、織田信長は今川義元のこの時、引導の導師を勤めたのが、大お脇わ村第十四話5554

元のページ  ../index.html#35

このブックを見る