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ょうしわ送ってくれた。今までの忠節、生涯忘却せぬ……。思えばわしが、大お野のの宗そ家けの命により、草木竹ち林りの地に出で城じを築いてから、わずか二十数年、応お仁にの大乱に世はすべて変転極まりなく、わが一族も骨肉相争う中、家臣佐さ治じがために実権を奪われ、宮山城を退転いたすことになったにつき、わしも宗家のお伴をして丹後へ帰らねばならなくなった。それにつけても、心残りは、そなたたちの行く末じゃ……。」「ご案じくださいますな。われら、武士の世にほとほと愛想が尽きもうした。これから後は、刀持つ手に鍬くを握り、草木の里に百姓として身を埋める覚悟をいたしました。朝夕城跡を眺め、菩ぼ提だ所の浄じ土ど寺じをお守りしながら、 土に生きる平穏な日々を送りとう存じまする……。」送る者も、送られる者も、たがいに手を取す。宮津新し海か氏の柳審城はたちまち陥落します。すでに手中に収めていた板山から福住をおさえ、草木へも進出し、柏か原ばに竹た之の越こ城を築いて、部将竹内弥四郎に守らせ、佐治氏に対抗させました。しかし、それも約三十年後、織田信長の命を受けた佐久間信盛の軍によって、坂部の城と同じく落城の憂き目を見てしまうことになります。草木の地は、戦国時代の前半百年足らずの間に三度も領主が替わりました。ですから、草木の城も、竹林城は二十年、竹之越城は三十年と、間に城のない七十年が入った、まことに短命な、まるで、まぼろしのような城であったわけであります。しかし、その間の人々の出入りは、当地の人々の姓の違いになって、現在も残っております。元もは、坂部の久松氏に妹を再嫁させて盟約をり合い、抱き合って、これが今生の別れかと号泣し合うのでした。再びこの地に城を築くことなく、部下の兵を配置して、農耕の傍ら非常に備えさせました。そうしたことで、隣接坂部で次第に勢力を伸ばしてきた久松氏と小ぜり合いはありましたものの、その七十年間の領有のうち、先住者と屯と田で兵へたちの間に確執は起きませんでした。しかし、廃城となった竹林城の跡には、いたずらに夏草が生い茂るのみでした。新しく織お田だ氏と結んだ緒お川が・刈か谷や城主水み野の信の結び、一挙に知多半島東海岸を南下し始めまさて、一色氏にとって替わった佐治氏は、ところが、天て文ぶ12年、今い川が氏と手を切り、れの姓をつけることにしたようである。草木地区について言えば、一い色し氏竹ち林り城の家老池い田だ嘉か右え衛も門んは池田の地名を残し、土着後、その直系の子孫は豪農として栄え、その分家やゆかりの家は、現在、池田姓を名のると考えられる。また、佐さ治じ氏の屯と田で兵へとしてこの地に帰農した人々の末は、平ひ井い・都つ築づ姓が多く、水み野の氏の部将竹た内う弥や四し郎ろに率いられてきた人々の末が竹内姓を名のっていると想定される。ただし、明治の初めには、相当の混乱があったと思われるので、家紋も考えてみる必要がある。それは、昔は姓と家紋は深いつながりがあり、もし、同姓の他家と家紋が違う場合は、何らかの理由で現在の姓を用いたものと思われ、一度先祖調べをしてみるがよかろう。明治の初め、平民も姓を名のることになったとき、人々は大変困ったらしい。結局は、先祖を尋ね、本家とのつながりを大切にして、それぞ屯 竹 田 の 之 越 苗字の話5352─ 竹林城趾 ─    いんらけし うちけらずきんんい  くんきけ とわりずぶいんんまわわ城いんん んうろんく おう地 

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