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虫 供 養ょうょうょうろもすめ「おやっ…。」仏壇の横に古めかしい画像が掲げられているのに気づきました。ちょうどそのとき、衣服を改めた主人が顔を出します。あいさつもそこそこに、仁右衛門さんは尋ねます。「ご主人、あのお軸じは……。」「ああ、あれはなんでも百年ほど前、うちの先祖が譲り受けてきたもので、なんでも、法然上人さまが描かれた阿弥陀さまだということでしてな、それで、わが家でも大切にお供養を続けております。」「これは、きっと、阿久比谷虫供養のご本尊さまに違いない……。」お茶もいただかないで、早々にその家を辞した仁右衛門さんは、長い知多街道の道のりを飛ぶようにして帰ります。いつも気にかけてくださる正し盛せ院いの方ほ丈じさまや、村の古老たちと相談してすぐお迎えせねば。小走りの歩みにお念仏の声がまじり合いました。ここ椋岡の長ち光こ寺じでは、村人たちが大勢集まって、深刻な顔をして相談をしておりました。「これだけ雨が降らぬと、畑作はおろか、稲の立ち枯れも出かかったようだ。今まで何度か雨乞いをしてきたが、なんのききめもなかった。いろいろ思案をしてみたが、らちがあかぬ。この上は最後の手段として、衣こヶが池いの竜神様へ人ひ身み御ご供くをするよりほかはないと思うのだがのう……。」庄屋の和か右う衛え門もさんは、悲痛な声で言い出しました。「……かわいそうに、人身御供は生き娘むということだが、どこの家の娘にするか、決めるのがむつかしいなあ。」「おらがお秋は、絶対にいやだ。」「だれも、自分の娘を竜神様に差し出すのはいやに決まっとるが、このままでは、村中みんなが飢え死にを待つばかりだ……。一人の娘で、村中を救うことができればのう……。」「気の毒だが、クジ引きで決めるしかない。」「それでは、クジで決めてもいいかのう。」和右衛門さんが言うと、しんとして、だれ一人頭を上げる者もありませんでした。立ち上がって言いました。「皆の衆、人身御供は見合わせてもらいたい。そのかわり、拙僧が明みの国で覚えた秘法をもってご祈き祷とをしてみましょう。」「どうかお願いします。」と口々に言いながら、手を合わせて旅僧を拝このとき、寺に泊まっていた一人の旅た僧そが村人たちは、ほっとして、んずうとけ33 うん びう う うんいく っいん く んいろんうう いりょ功く徳どなどの虫供養として発展してきたが、その(一五〇二)年の記録では、二十二村が参加す仏の教えで始まり、真し盛ぜ上人の影響を受けて現在の姿となったとしている。良忍上人は、延久4年知多郡の上野町富田の生まれで、融通念仏宗を開かれた高僧。当町北西部が大野荘の一部に含まれた時代もあったので、その影響を強く受けたに違いない。文亀2るまでに発展した。その後、天て台だ律り宗しの真盛上人らの説く十念の範囲が阿久比谷内に限られ、天正の法難を受けたり、植大地区の離脱があったり、明治維新の混乱にあったりしながらも、現在も維持されている貴重な民俗文化財である。ゅう張わ名め所し図ず会え」では、比び麿まが始めたとしょう良り忍に上人の融ゆ通づ念江戸末期の「尾お虫供養の起源を英えているが、ここでは、「阿久比谷虫供養記」の説により、第十一話雨乞いの竜4746─ 現代虫供養 ─

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