ょうょうゅうょう大お原はのご本山で、春の中ごろおなくなりに鍵か所、野田の密蔵院で出家し、その後、比ひ叡えれた御鏡を、わざわざ鋳い直なしてくだされたものとか……。」「それにしても、上人さまのお念仏はありがたくて、いつお聞きしても、涙がこぼれてのう。」「なにしろ、四十八歳の御時に阿弥陀さまから直じ々じにお受けなされたというお念仏じゃ。お生まれの富田が、ここと近いお陰で、こうして度々おいでくだされる。わしらは、ほんに、果報者よのう。」─阿久比谷の人々は、融ゆ通づ念仏宗の開祖、良忍上人の訪れを、首を長くして待ちこがれるのでした。「おおい、えらいこっちゃぞよ。上人さまは、なっておられたということじゃ。」「えーっ、それじゃあ、この谷のお念仏は、これからはどうなるのかえ……。」人々は頭をかかえこんでしまいました。とにかく、なんとかしなければならぬ。各旧暦7月の末、年号が長ち享きと改められたばかりのころ、角岡村の平へ泉せ寺じには、偉いお坊さまが説教においでたということで、村々から大勢の参詣者が押し寄せ、まだ残暑の厳しい境内の土の上にぎっしりと腰を下ろしておりました。その僧は、じきに五十に手が届くと思われる年ごろで、長い間の厳しい修行と遠い説教の旅にやつれてはおりましたが、堂の内外へよく響き通る声で、巧みに語りかけていました。「拙僧は真し盛ぜと申し、伊勢の国は一志郡の生まれでござる。法縁があって、熱田の宮のおのお山に登って、横よ川かで二十年血のにじむ修行をいたした。先せ達だになってもらい、各村の代表も仲間に入っ孫ま子こ末代まで続けてほしいものじゃ。わご ぎいいん くゃうういん婆 い らおんつん きき。お うう村から代表が集まり、善後策の相談が始まりました─「皆、この、年一度のお念仏を待ちこがれている。これは絶やしてはならぬ。」「むろんだとも……。だが、間近に迫ってきている今年のお念仏は、どうしようかのう。」「今度はわしの村が当番になるはずゆえ、責任を持ってお道場は整えよう。だが、お念仏の段取りは、どうしたらよいか……。」「それは、去年勤めたばかりの草木の衆が一番よく知っているはず。とにかく頼み込んで、て、それで音お頭どをとったらよいではないか。」「おお、それはよい思案じゃ。上人さまがおいでにならなくとも、この谷では、各村巡り回りで続けて行こうではないか。」ことはなく、かえって乙川村や有脇村も加えて盛大になっていきました。もあり、また、密蔵院を本寺とするこの寺の住持のお招きもあって、皆の衆に法話をさせていただくこととなりもうした。るのでござるが、十じ王お経きというお経では、七日ごとに十人の王さまが生前の行いに基づいて亡も者じを裁かれまする。……」図を指さしながら、巧みな話術で念仏の功く徳どを説いてゆき、人々は身じろぎもせず、全身を耳にして聞きほれてゆきます。「……このようにお念仏は、まことにありがたいものでござる。お導きによる百万遍念仏が続けられていると聞いておる。まことに結構なことで、どうかこうして、阿久比谷の百万遍念仏は、絶えるこの英比の荘はお宮にゆかり深いところでさて、人間は死ぬると、長い冥め途どの旅へ出真盛と名のる上人は、柱に掛けられた十王ところで、この谷には昔から、良忍上人のだがのう、念仏の功徳は、人間だけではご⑵ 大 塔 4140
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