時は天て承しう2(一一三二)年の夏のことでした。 ょん⑴良忍上人ね くうん いいいんつく んゃゅしまんの ねんお 竹竿さを立てて、丘の土中深く埋められました。「おお、まんだ鉦かの音が聞こえるぞ……。」交代で墓のお守もりをする村人たちは、かわるがわる竹の口に耳を当て、そしてささやき合いました。人々全員が墓の前に集まりだした十数日後、かすかに聞こえていた鉦の音がふっと絶え、ただ松の枝を吹き通ってゆく風の音だけが残りました。員が地面にペタンと座って、固く手を合わせておりました。だれからともなく、お念仏の声が起こり、次第に多く高くなって、丘下の村里へ流れてゆきました。くださる─に石塔を建て、周りの掃除を怠りませんでした。今もお酒や供物を供え、お念仏講を勤めることがならわしになっています。「だんだん浜供養が近づいてきたのう。」「ああ、去年は草木村で山供養だった。順番からいけば、今年は川堤の柳の広場じゃ。が自ら描かれたという阿弥陀さまの前でのお念仏がありがたくて、その日が待ち遠しくてならぬわい。」「わしは、あの鉦かの音が今も聞こえるようじゃ。」「あの鉦は、都の天子さまが大切にしておら ─白木の棺かに入った伍大院は、息抜きのもうみんな泣く者はありませんでした。全伍大院さまが、この村をいつまでも守って人々はそう言い合い、お墓の上わしは、あの慈じ覚か大師さまや法ほ然ね上人さまここでは、同名の人物が太た平へ記きに載っているところから、時期を室町時代初期の春と仮定したが、正し盛せ院いの過去帳に記載される親族の死亡年月から江戸時代初めの秋とし、草木地区では、毎年9月21日に墓前供養を続けている。なお、(六十)六部というは、日本国中の国々へ法華経を納めて回る廻国行者で、それにまつわる伝説が当町には残されているが、ここでは割愛することとした。湯ゆ殿ど山さ(真言宗)系の山や伏ぶ行者(修し験げ者し)が、自分の過去に犯した罪業を清算しここに登場する伍大院の説話は、鎌倉時代末期から江戸時代初期にかけて日本各地に見られる「土中入定」をとりあげたものである。たり、病厄災難に悩む人々に代わって苦しみを受けるため(代受苦)や、末法の世が終わって弥み勒ろ菩ぼ薩さが出現されるまでミイラになって待とうとする目的で、自らを土中に埋めたり、断食断水をして死ぬという、悲壮な宗教的自殺行為である。ょう第十話阿久比谷虫供養3938─ 伍大院の墓 ─
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