なもとのいらのゅうとょう い くいう333だううんいおんいんんいいいょちいん 勝 寺 んゅんうんゃ い えさまさだね りよるうんぶしも うん 33 い んじょう平へ治じ2(一一六〇)年正月3日、英比荘の鎌か田た政ま家いの舅しに当たる野の間ま荘の長お田だ忠た致むの屋るお村々では、子供たちがたこ揚げを楽しみ、竹馬に興じる、のどかな正月でした。この時、血相を変えた騎馬武者が一騎、南の方から息せき切って駆けてきました。この武士は渋し谷や金こ王の丸まといい、源み義よ朝との家来でした。平治の乱で平た清き盛もに敗れた義朝は、命からがら都を逃げ出し、平治元年12月30日、家臣敷に落ち着いたのでした。しかし長田は、ひそかに義朝殺害を計画し、平へ家けに取り入り、恩賞にあずかろうとしていたのです。らかなお顔の地蔵さまは、心にゆとりを与えてくれました。傍らに湧き出る清水は、のどを潤うし、活力をつけてくれました。ひと時の休息の後、お礼の気持ちを込め、主君の仇あを美事討つことができるよう祈願して、最前の馬のくつわをお堂に奉納すると、再び京を目指して走っていきました。それから年を経ること幾い星せ霜そ、村人たちはこの古見堂地蔵を信仰し、子供が生まれると、金王丸のようにじょうぶに育つよう参詣してきました。ある夜、卯之山の最さ勝し寺じの住職の夢枕に、一人の鎧武者が現れ、「私は渋谷金王丸である。その昔、古見堂地蔵尊にはたいへんお世話になった。ところが今見るに、お堂がひどく傷み、雨ざらしになっておられる。なんとか修理してほしい。」と言って消え去りました。住職は早速地蔵さまを本堂に丁重にお迎えすることにしました。天てし、主君の首を奪い返さんものと、長田一朝の家来たちを使に出してから、義朝に朝風呂をすすめました。計画とは知らずに湯殿に案内された義朝は、無残にも丸腰のまま切り殺されてしまいました。「吾に木き太だ刀ち一本ありせば、汝ならに討たれまいものを。」と言って死んだのです。首を持って京都へ走り去りました。族と戦いながら、馬にまたがり息せき切って阿久比の古こ見み堂どまで来たのです。いので困っていると、路傍の地蔵堂が目に留まり、そこで休息を取ることにしました。頼んで、金王丸は、こみ上げてくる激怒を押さえつつ、新たな闘志を燃やすのでした。安のは、金王丸のお告げだそうな。」「子供の虫封じに霊験あらたかだそうだ。」という評判がたち、子供連れの参詣者が絶えないということです。最明けて正月の3日、長田は鎌田や渋谷ら義長田は金王丸たちが帰ってこないうちに、使いから帰った金王丸は、この大事件に仰ぎしかし、馬が疲れ果て、もう一歩も進まな通りすがりの村人に乗り継ぎの馬の手配をその後「最勝寺に古見堂地蔵さまが移った台だ宗に属し、大だ円え山ざ最さ勝し寺じと改号、七堂九院の本尊大だ日に如に来らを安置、平安時代に改宗して、天て大伽が藍らが整備されていたが、度々の兵火で消失して現在の規模となったという。また、大お場ばの地に、大た場じ山ざ宝ほ幢ど寺じという寺があったが、江戸時代中期に名古屋へ移転し、残された子安地蔵と村内にあった古見堂地蔵は、当寺に移転、安置されたと伝えている。武む天皇の世、役え行ぎ者じょうょう寺伝によれば、天てを開基とし光こ円えが開いた大恵山長泉寺という修し験げ道の寺があり、後、行ぎ基き菩薩がこの地へ巡じ錫しの際、んのょうょうゅんゃく第八話古見堂地蔵3332─ 最 勝 寺 ─
元のページ ../index.html#24