阿久比の仏寺いらのおりかたましょうかどくらわしがお伴を申し上げることになりましたのじゃが……。」済乗坊と名のる旅僧は、熱心に聞く矢口の里人に、仏の由来を語り続けるのでした─。このみ仏は、一光三尊仏と申し、まことに尊いお姿でござる。話せば長いことながら、庵いで念仏三昧中のわしのもとへ、ひそかに平家のお使者が来られ、平た重し盛もさまの小こ松まのお館やに案内されたは、今から三年前の治じ承しう3年7月のことであった。重盛さまは、当時飛ぶ鳥落とす勢いの清き盛も公の御お曹ぞ子しで、誠実で思慮深く、天下の信頼厚いお方であられたが、ともすれば権勢におごりやすい父君やご一門を常に戒いめられ、そのご心労が重なって、病いの床に伏しておられた。その夜、わしを枕もとに呼び寄せられ、苦まいり申した。ところが、不思議なことに、この里へ足を踏み入れ申すと、み仏が急に重うなられ、負いづるが肩へ食い込んで、もう一歩も歩かれぬ。そこで、お厨子を路傍に安置して、念仏申し上げていたのでござるが、皆の衆もよくご唱和くだされた。見渡せば、この里は緑が濃く穏やかで、眼下には青い海が入り込み、そよ吹く風も心地よい。里人たちも信心厚い方々とお見受けした。み仏が重うなられたは、この里を永住の地と思し召されたに違いない─。一部始終を聞き終えた里人たちは、思わずみんな手を合わせて、お念仏を唱和し出しました。こうして、このみ仏はこの矢口の里に祀らう んい んんいん らいいいん よりうんょつりげ 33 にだついくいれることになり、済乗坊はじめ、里人たちの手で、次第に堂ど宇うが整備されて、念仏称名の声しい息の下で、こう申されたのでござる。「わしは、もう余命いくばくもない。貴僧にたっての頼みじゃ。わが枕ま辺べのご尊像は、かたじけなくも、聖し徳と太た子しさまが霊れ夢むを受けられて難な波わの入江に沈ませたもう百く済ら仏ぶを得られ、それを模して三体刻ませられた、一光三尊仏の一体である。長い間、宮中の奥深く奉安されていたが、帝みの思し召しにより、わが持仏としてお移りになられたものである。ぶまれる。この由緒あるみ仏に兵火が及んではならぬゆえ、貴僧、何とぞ、ご尊像を護持して、み仏のみ心にかなう地を尋ね当て、終生お仕えしてたまわらぬか。」盛公は他界され、源氏の兵が都に乱入し、平家は西海へ逃れ去った由、重盛公の予見のとおりとなった。わしは、兵火を逃れつつ、ご尊像を負いたてまつり、六十余州の旅を続けてが一帯に響き渡るようになりました。わしの亡き後、平家の行く末はまことに危……あれからすでに三年、伝え聞くに、清今の済乗院の起こりです。済さ乗じ院いも、初め天の争いがからみ、一時は、堂を焼き像を捨てるという事件を招来したが、蘇そ我が氏の台頭と共に、聖徳太子の登場となる。当地へ寺院が建てられるようになったのは、平安時代に入ってからと考えられ、天て台だ宗・真し言ご宗であったが、鎌倉時代以降改宗されたものが多い。本話の台宗であったが、浄土宗に改められたと伝えている。欽き明め天皇の代(五五ょう仏教が正式にわが国へ伝えられたのは、二)に百く済だの聖せ明め王から仏像・経典が献ぜられた時とされるが、その賛否に豪族一光三尊の仏3130─ 済 乗 院 ── 一光三尊仏 ─
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