いんいんつさん んんい 弘 誓 院 うんいんんいつつくいんつうぶ んんま んゅうょうょうところで、あの道端の壊れかかったワラ小屋はなんだな。」「ああ、あれか。あれは阿弥陀堂だわ。なんでも、大昔、兎がくわえてきたありがたい仏さまを中に納めたお木像をお祀まりしてあるのだが、長い間手を入れんので……。」「そうかい、もったいないことだのう。」初めての慣れない農作業に疲れて帰ってきた佐さ野の九兵衛は、その夜、仏さまの夢を見ました。一匹の白兎を伴に従えられた阿弥陀さまが、金色の光を放って枕もとに立たれ、九兵衛の手をとられたのです。九兵衛は全身がジーンとしびれるような気持ちになりました─。「のう、九兵衛さまが、阿弥陀堂の堂守りになって、あのお堂を再建なさりたいそうじゃ。」「みんな今まで気にしていたこと、わしらもお手伝いをせねば……。」近くの神田という所の弘ぐ誓ぜ院いという寺で剃て寛か文ぶ6(一六六六)年の春さきのことでし髪はして、行ぎ安あと号した九兵衛は、毎日阿久比内に、兎が運んできたみ仏を納めて、寺の本尊とし、七堂伽が藍らの立派なお寺をお造りになりました。「卯う之の山や」と呼ばれるようになりました。た。「これは、九き兵べ衛えさまではねえか。なんとまあ、野の良ら着ぎ姿で、いったい、どうしなさったのかね。」「おお、仁に三さ郎ろさだのう。わしも実は、長いお城勤めをこの度おいとまいただいて、百姓をするため帰ってきたのだ。」「そうですかい。それはええことだ。物知りのお前さまが帰ってきてくだされば、村の衆も、とても都合がよいわ。」「まあ、これからはよろしゅう頼みますぞ……。谷の村々を托た鉢はして回り、集まった浄じ財ざと村人たちの奉仕で、お堂は立派に再建されました。行安はその後、この堂を離れることなく、四十八夜別時念仏を修業したり、村人の相談相手となったりして念仏三ざ昧まの生涯を送ったということです。そして、いつとはなしに、その寺の地名は阿弥陀如来を本尊として、七堂伽が藍ら五十坊舎の兎養山長安寺を造営したが数度の兵火で消失、その後、天文2年呑どう及が小庵を営み、浄土宗弘誓院と号したが、元禄5年佐さ野の正ま勝か再建阿弥陀堂の地へ移ったという。中興行ぎ安あの木像がある。ん きゅ菟と養よ山ざ弘ぐ誓ぜ院いは卯ょういないぶつょう坂字仙入坊にあり、浄土宗に属す。寺伝によれば、天て台だ宗開祖伝で教き大師が北沢から兎がくわえてきた仏像を胎た内仏とした行安の発心2726─ 弘誓院 ─
元のページ ../index.html#21