阿久比の始祖っと立た臼うの上に新しいこもを敷いてその上に安置洞と雲う院いに祀られております。んんううう33すてろどみののかみつげりかりさ いらきらじうきん がらちね とらがらちねつた けしぎらしろた。今後は、新海丸はこの谷の南半分を、久松丸は北半分を治めなさい。両人とも、力を合わせて、里人の幸せのために尽くしてほしい。時の移り変わりによっては、この荘にも度々危機が訪れるやもしれぬが、あらゆる手だてを講じて、菅家の血統を絶やすな。」─として過ごしました。時には、緑の深い丘に腰を降ろして、付近の子供たちの遊びたわむれるのを目を細めて眺めやったり、興がおもむけば、その子供たちを集めて、読み書きを教えたりもしました。功なりとげた後の、穏やかな日々が続きました。さて、この荘の開祖と仰がれた英比麿は、天寿を全まうして、永い眠りにつきました。里の人々は、慈父を失ったように長い間悲しみにくれておりましたが、英比麿夫妻の木像を造って、最近まで、各家へ一日ずつお迎えし、し、親族縁者を招いてお参りをいたしました。これは、英比麿はいつまでも生きておられて領内を巡視してくださるのだという思いで、その徳をたたえてきたもので、この地では、「回り地じ頭と」とか「回り地じ蔵ぞ」と呼んでいます。英比麿の墓と回り地頭の木像は、坂部の原は天神社を造営しました。そして、入江を挟に大河が注ぐ河口付近は、広い沢地になっていました。そこには、丈たの高い片葉の葦あが一面に生い繁り、かれの来訪を歓迎するかのように、数百羽の白し鷺さが群れ遊んでおりました。かれは、その美しい景色に見とれて、長い間たたずんでいました。この地を「白沢」と名づけよう、ここを開拓したら、きっとすばらしい美田となるに違いないと考えました。そこで美田を見下ろす丘の八十間四方を神域と定め、ここに、祖先の菅す原は道み真ざ公を祀まる北きむ東西の各里さから、社やに通じる天神街道を造って、人々に参詣をすすめ、自らも、毎月られました。かれは、老妻とともに、毎日のお参りと里人たちとの談笑を何よりの楽しみ英比麿が初めて荘内を巡視したとき、入江英比麿は白沢がたいへん気に入りました。英比麿の隠居屋敷は、この社の傍らに建て坂さ部べ薬く説、宇う土ど君き説などがあり、現在まで種々昇進したが、藤ふ原は時と平ひの「斎と世よ親し王のを帝位に就かせようとしている」というざん言で、北九州の太だ宰ざ府ふに流され、延喜3(九〇三)年、配所で病没した。その一族は、すべて各地へ配流されたが、当地の英比麿公は、長男高た規のの子雅ま規ので坂部城の久松氏に続く(久松系図)とする説、四男淳あ茂しの系統で宮津城の新海氏に続く(新海系図)とする説がある。その他、知ち多た臣お説、和わ迩に氏説、論考されているが、最近では、客ま人う説や、天(雷)神崇拝の発展としての民間信仰として、民俗学の分野で考究すべきだとする学説も提起されてきている。すり阿久比谷の開祖、英比麿については、古来いろいろの説がある。天神として崇められる菅す原は道み真ざ公は、宇う多た天皇に認められて右大臣にまで1918─ 回り地頭 ── 尾張名所図会から ─25日の参拝を欠かしませんでした……。
元のページ ../index.html#17