かまやま海み丸まと名づけ、里長に、大切に育ててくれる久ひ松ま丸まと名まえをつけ、共に分け隔てなくかわつみ阿古女はさめざめと泣き続けました。英比麿の館に、都から奥方が下ってこられました。菅原氏一族の出で、都育ちで上品な美しいお方でした。阿古女の方が去ってしまわれた館の中も、ようやく明るさを取り戻してきたようです。英比麿が都からこの里に帰ってみると、阿古女の姿がなく、代わってみどり子を抱いて現われた里長夫婦が、阿古女が、英比麿の将来のため、泣く泣く身を引いたことを告げました。英比麿は、あらゆる手だてを使って必死に捜しましたが、妻の姿は、どこにもありませんでした。うわさでは、緑の黒髪を断って、一人西へ去っていったということでしたが……。英比麿は、母を失ったわが子をいとおしみました。そして、美しい入江にちなんで、新によう、幾度も幾度も頼みました─。結局、英比麿は、都の父の言うとおり、奥方を迎えることにしました。そして、その翌年には、奥方は玉のような男の子を生みました。英比麿は、丘の青松にちなんで、この子にはいがりました。奥方も心優しい人がらでした。落ち着いた英比麿は、里人を指図して村づくりに励みました。まず、山を削り、浅瀬を埋め、川か堤づを固めて、田畑をふやし、いくつかの里を造らせました。そして、里々をくまなく回り、人々の訴えをよく聞き、穀物の増産と税の軽減をはかりました。それで、里人たちは、かれを慈父のように慕い、毎年、年の初めには、全員が白い袴はを着けて、館へ年賀に上がることを常としました。白い袴は、枝え郷むができて、後の十六か村のもとができま里人の清らかな敬ういの心を表したものでした。都では、この地のおいしいお米とともに、「英比の白袴」は、有名になりました。んのこと、近隣にまでに及び、谷の各里にはしたし、今の東浦町や半田市が、英比荘として開拓されてゆき、英比麿は、その始祖と仰がれました。十年の歳月が過ぎ去りました。荘内の里長たちを集めて、隠居することを告げました。「私は、すでに年老いたので、退くことにし ⑸回り地頭 わ いんるつさらだ ⑷英比の るい こうして、英比麿の徳は、この谷はもちろ英比麿が仁じ政せを施すようになってから、数年老いた英比麿は、新海丸と久松丸をはじめ白袴1716
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