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薬と地名333もと  みことさのととんう つ ょん⑴呱々の声  ゃいういねちらがろん い いいい  のらぎまら にのけみみざりのらわ幽とれの身であった麿は、藤原氏専せ横おの宮仕えかどたいおり新し羅らが百く済だを攻め亡ぼし、大やと和の丘は唐かの水延え長ちう2年(今から約千百五十年ほど前)のそなたも知っていようが、朝鮮半島では、軍に大敗して、今は北九州の防備に忙しい。すでに、上か毛つ野ぬ国くへ流された守も君きも、大和へ帰って、唐の国との交渉に当たっているそうだ。皇太子は、わしをも召して、そのことに当たらせるおつもりに違いない。……だが、あのお方は恐ろしいお方だ。……はらわたの煮える思いでも、わしは、大和へ帰らねばならぬ……。」屋敷の周りも、入江の向こうの丘も、松林は黒ずみ、一帯の景色は、紗しをかけたように煙っていました。そんな風景をいとおしむように眺めやった薬は、今度は、強いひとみで、わが子を振り返りました。「だが、おまえだけは、ここにとどまってほしい。大和は、うわべのはなやかな下に暗い春さきのことでした─。深く入り込んだ阿久比谷の海辺には、さざ波が静かに寄せ、輝く太陽が岬の丘から高く昇りかかったころ、銀波の中を、この地では珍しい白帆を高く掲げた一そうの船が、しずしずと入ってくるのが見えました。「おーい、大きな船が入ってくるぞー。」ちょうど磯へ出て藻もを拾っていた里人の呼び声で、次第に人々が波打ちぎわに集まり出し、だれが知らせたのか、里さ長おまでが、小こ者もを連れて顔をのぞかせたころ、数人の人影がはしけに揺られて白砂の岸に寄り着き、伴と人び謀略ばかりが進んでいる。心は温かい。土は豊かな稔みりを約束し、焼き物にも適している。おまえの優れた技わで、額ひに汗して取り入れたうまい米を、丘で焼き上げた壺にかもして、談笑しつつ飲む喜びを、里人に味あわせてやるがよい。」山裾の道を北へ遠ざかって行きました。を従えた都風の貴公子が静かに人々のかたまりへ歩みを進めていました。「麿まは菅す原は道み真ざの直系の者である。延え喜ぎの初め、帝みに重く用いられていた父道真公は、藤原一族の謀略で太だ宰ざ府ふの閑職に流され、そこで没せられた。われらも、そのことに座して尾張に幽ゆ閉へせられてあったが、都には天変地異が相続き、これは亡なき父君の御霊のたたりに違いないとの世評で、帝も、元の官位に復されて北野に神と祀まられた。われらにも、早々都へ立ち戻るようお召しがあったが、長い間はうとましく、心温まる地にとどまって、静かに憩いいたいと考えた。の中ほど、入江は深く穏やかで、清らかな大河あり、物成り豊かで、里さ人びの心も素直と聞いた。よって、特に帝に乞い、里を中心とする英比荘を賜ることの勅許を得たゆえ、ただこの地は、まだ開けてはいないが、里人の ─そして、その翌日、隊列が、阿久比の国の守かの話によれば、この里は、知多の郡こ日本書紀斉さ明め帝て4年の項に、坂(合)部連薬が有馬皇子の事件に連座して尾張に流された記事がある。江戸時代の津つ田だ正し生せという学者は、その著「尾張地名考」で、坂部や草木という地名から見て、薬の流刑地は当地で、英比麿は、かれと深いつながりがあるのではなかろうかと書いている。わが国の古代には、天皇家やそれを取り巻く大豪族の間で、血を血で洗う権力闘争がくりかえされたことは、和歌森太郎著「陰謀の古代史」に詳述されており、有馬皇子も登場している。ょう第三話英比麿物語1110

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