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熱田社・二子塚ろもがたかま何度捜しても見つからぬ。船団は悲しくこの港へ帰ってきたのだが、その後、ミコトの衣が流れ着いたので、この海を衣こケが浦うと名づけたのだそうな……。ミコトに代わって兵士を統率して帰った丸ま氏とか和わ迩に氏とかいう一族は、とうとう阿久比谷にとどまって、知多を治めることになったという。─そんなふうに聞いておりますがのう……。あんたも聞いとられると思いますが、ヤマトタケルノミコトは、ミヤズヒメと結婚され、ヒメのもとに宝剣を残して伊い吹ぶ山へ向かわれ、そこで病に倒れられましたので、ヒメは、熱田にお社を建てて、宝剣をお祀まりなされました。それで、この地の丸氏も、その分社をここへ祀りましたが、その因縁で、今でも5月8日におためしがあります。その丸氏のお墓が二ふ子ご塚つの古墳ということで、大お場ば・県あ城ぎ・折お戸どなどというゆかりの地名も残っておりますとか……。風のないだ仲秋の夜半は、空気もいっそう澄んで、ひんやりと、少し膚寒さを覚えさせました。坂部の、とある農家の縁ばたでは、その家の老婆が幼い孫娘に話しかけておりました。「ほら、見てごらん。あんなにきれいなお月さんが出ているよ。お婆ばちゃんがあんたくらいのころは、旧暦の8月15日を芋い名月、9月いといかんと、どこの家でも庭に床と台だを出して、お供えしたダンゴや果く物もを食べながら、お月見をしたもんだよ。あ、そうそう、お月さんといえば、この坂部に月つ宮み姫ひさまのお塚つというのがあることをあんたは知っておるかい。」「ううん、わたし知らないわ。ねえ、お婆ちゃん、その月宮姫さまって、どんな人なの。」「じゃあね、ちょっとだけ、そのお話をしようかな……。」煙って浮かんでいる遠くの丘を見やりました。「それは、うんと大昔のことだったそうな……。ここには古い神様のお社があって、そこに、月宮姫さまという巫み女こさんが住んでおられた。どこからおいでたのか、村の人はだあれも知らなんだが、それはそれはお美しい、透き通るようなお方だった。宮へお祈りに行くと、赤い袴はに白絹の衣を着けた月宮姫さまが、白沢から取っておいでた片葉の葦あを手に、神様の前で、きれいなお声で歌を歌いながらさらさらと舞を舞われた後、今年の米のできぐわいや天候災害など、神様のお告げを伝えてくださる。それで、村人た老婆は、遠い昔を夢見るように、月の光で今年もたんとお米がとれますようにと、おかめやき だのこいし 333   もあ7 3333 たかりお333 つき るらるま  6 け日やと本武た尊みの東征に随った丸ま(和わ迩に)氏の奉祀したして統一を進めた時期に当たっている。古墳には、いろいろな形式があるが、宮津にある二子塚は、前方後円墳という日本独特の形式で、五~六世紀ごろの阿久比が、大きな生産力と統治力を持つ豪族に支配された先進地であったことを伝えるものとなっている。熱田社は、創立年代は不詳だが、社伝によれば、社で、英比麿が領主となって祭事を司どり、後、その子孫新海氏が受け継いだと伝えている。ことけるの考古学で、古墳時代と言われる時期は、天皇家の直轄地である屯み倉やと大和の豪族たちの支配地田た荘どを地方に設け、大和朝廷の力を全国に及ぼころ⑶月 宮 姫─ 二 子 塚 ── 熱 田 社 ─13日を豆名月と言ってね、両方ともおがまな

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