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第126号(令和元年9月)海外地方行政調査 フランス編1

[2019年9月18日]

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執務中の町長

阿久比町長 竹内 啓二 

5月19日(晴れ)

ドイツのフランクフルト空港を飛び立ち、1時間半のフライトを終えて午後6時に南フランスのマルセイユ・プロヴァンス空港に降り立ちました。フランス最大の港湾都市マルセイユは、地中海に面した美しい海岸線をもつコート・ダジュール地域圏にあります。ここからバスで90キロメートルほど離れたアビニョンへ移動しました。

1時間半ほどで、延々と続く古い城壁が現れ驚きました。この城壁内には歴史的な街並みが残っており、世界遺産にも登録されているそうです。1309年から1377年まで「アビニョン教皇庁」が置かれていました。当時カトリック教会の派閥争いがあり、ローマから逃れた法王がこの地に宮殿を構えたもので、外部を寄せ付けないまさに要塞といえる都市を造り上げていました。城壁内の教皇庁をはじめ、鐘楼の上に黄金の聖母子像がさんぜんと輝くノートルダム・デ・ドン大聖堂やプティ・パレ美術館の説明を受けると、翌日からの視察に向けて私の中で鐘が鳴り響き始めました。この城壁の石組を完成させるのにどれだけの人と時間を使ったものかと胸の高鳴りとともに驚きを持って眺めているうちに、城壁門の外にあるグランドホテルに到着しました。改装中のため通用口に通されたので期待していなかったのですが、部屋に通されてみると、古くはあっても清潔に保たれており「おもてなし」を感じて気分を良くしました。


大聖堂

ノートルダム・デ・ドン大聖堂

5月20日(曇り)

朝の目覚めは少し肌寒く感じました。昨夜は気付かなかったのですが、朝食会場では多くのアジア人(中国人、韓国人など)を見かけました。世界遺産に登録されているだけに観光客も多いのでしょう。

この日は「フランスで最も美しい村協会」に加盟する自治体での「小さな村おこし」を視察しました。そのため城壁内には入らず、ホテルからゴルド村へ向けて出発しました。ゴルド村はアビニョンから東へ38キロメートルのところに位置し、岩山の頂上にある人口1961人の小さな村ですが、特色ある景観を見ようと多くの観光客が訪れ、「最も美しい村協会」の中でも一番有名だそうです。

谷を挟んで見るこの村の全容は実に素晴らしく、見渡した瞬間ある記憶がよみがえってきました。同級生のご主人がギャラリーで個展を開き、お邪魔した時に目に留まった作品が、目の前に広がるゴルド村そのものだったのです。私の立っていたこの場所から描いたに違いありません。あの油絵の具の質感と筆の運びの荒々しさ、そして何層にも重ねられた色使いを想い返すことができました。目の前のゴルド村の風景をしっかりと目に焼き付けておいて、時間ができた折には私もキャンバスに向かいたいものです。ゴルド村の眺めは、帰国後もあの時ミストラル(この地方に吹く冷たい北風)を受けてしばらくたたずんでいたことを想い出すほど、私を魅了してやまないものでした。


村

美しいゴルド村の風景

坂道を登り、いよいよゴルド村の中へと足を踏み入れました。観光協会のエステルさんが我々を案内するために待っていてくれました。説明によれば「フランスで最も美しい村協会」に加盟するには、歴史的建造物が2つ以上あることや人口が2千人以下であることなど、27もある取り決めを全て満たしていなければならず、ゴルド村は協会発足時にこれらの基準をクリアした上で、議会と村民の了承を得て加盟したそうです。ゴルド城はアグー家の持ち物でしたが、フランス革命時に領主がいなくなり村の所有物として図書館や村役場などにも使われ、1971年から1996年まではハンガリーの画家ヴィクトリア・ヴァザルリの美術館として利用されたそうです。他にも多くの芸術家が展覧会を催すなど、国境を越えて多くの人を惹きつけてやまない地となっています。

これらの建造物を良好に保存しないと「美しい村」のラベルをはく奪されるそうで、多くの税金や寄付金が財源として使われているとのことでした。この小さな村に潤沢な財源がある理由を質問してみると、過去にはシャガールやミッテラン大統領の子女が住んでいたこともあるなどヨーロッパの富裕層が集まっており、税金対策としての寄付も多いとのことでした。全戸数の30%から40%が別荘になっており、村の収入の約3分の1が観光収入でした。それにしても、岩肌や石畳の修復なども個人が行い、住民が私費を投じて景観の保持に協力していることは驚くほかありませんでした。

ゴルド村を訪れる観光客はベルギー、ドイツ、イタリアなどヨーロッパ圏からが多く、また日本人は一年を通して訪れるそうですが、この日はお会いしませんでした。

次に10キロメートルほど離れたルシヨン村へ向かう途中で、農家レストランに立ち寄りました。バス幅いっぱいの狭い道を進むと、自転車に乗った一人のおばあさんが走り出てきてバスを誘導し始めました。どうやら農家の主のようでした。柵に囲まれた門に着くと、そこで下車して歩いて農家へ向かいました。木製チップが敷かれた道らしきところを歩くと、何やら靴底に粘り気のあるものがくっついてくるではありませんか。目を凝らして見れば家畜の排せつ物があちらこちらにあり、避けたくても足の踏み場がないほどです。仕方なくできるだけ乾いたフンを踏みつけながらレストラン入口へ向かうと、ガチョウもいればホロホロ鳥(美味しく高価とのこと)もイノシシも豚も牛もいました。私たちを歓迎しているのか一斉にブーブーモーモーガーガーと、にぎやかしい中で臭いも半端ではありません。正直大変なところへ来たものだと思っていると、いきなり後方から仔羊が私の横を通り過ぎ、振り返ってにらみつけている始末。この農家の他は周りに民家がないようなので、家畜も我が物顔で共生しており、自分が家畜である意識はみじんも感じられず、ある意味新鮮ではありました。料理はこの地方で昔から食べられている田舎料理でした。おばあさんの味付けによる濃いめのスープで煮込まれた鶏肉や豚肉、野菜などですが、やはり白米はありませんでした。帰りのバスに乗り込むときは、靴の汚れが大変でした。(ご想像にお任せします。)

リピーターになれるのかと言われると、首をかしげてしまいそうでした。

 

ガチョウ

放し飼いのガチョウたち

次に訪れたルシヨン村は、ゴルド村と同じく「美しい村協会」に加盟している人口1317人の小さな村で、村長のジゼル・ポネリーさんが自ら説明してくれました。

農業で細々と生活していた村が「美しい村」に加盟したことにより、観光客による経済効果や観光収入で文化遺産を保護できることなど良い面がある一方で、観光客で騒がしくなった村を嫌がるアンチツーリストの住民もいるとのことでした。現在156の村が協会に加盟していますが、「観光客に来てもらわないと経済効果がなくなり困るが、そのために日常生活で制限を強いられ不便さがある」というジレンマを共通して抱えていました。このことは観光立国を目指している日本にも起こり得ることで、早めの対処を考えた方が良さそうです。特に交通とパーキング、太陽光パネルの問題などを指摘されていました。

最後に村長は「大切なことは村のアイデンティティーを守ること、村民が自分の村が大好きであること。村には昔から、助け合いの精神のもと、村八分は絶対にしてはいけないという掟がある」とおっしゃっていました。 

ラグビー精神の「One for all,All for one」を感じた次第です。

美しい村のキーワードは「1美観、2観光、3経済、4住み心地」のようでしたが、今の日本を悩ませている町村の人口減少を食い止めるための定住促進策としては機能しないのではないかと感じながら、長閑なブドウ畑を後にしました。

(人口の少なさをあまり気にしていない様子は意外であり、少ない人口の割には耕作放棄地が見られなかったことも不思議でした。)


ルシヨン村の前で

ルシヨン村の前で視察団の皆さんと

5月21日(晴れ)

そろそろ疲れも出てきていましたが、朝のお味噌汁と梅干で元気を取り戻し、快晴のため帽子を手に取り出発しました。

「世界的な演劇祭のイベントによる町づくり」を視察のテーマに、周囲4.3キロメートルのアビニョン城壁の中へ足を踏み入れました。人口9万1千人の市は1995年に世界遺産に指定され、観光客も一年を通して訪れます。毎年7月に開催される世界的規模の演劇祭では、世界中から集まった人が1カ月間にわたって町の中で舞踏、演劇、音楽、映画などを発表するとのことでした。

案内役のジャック・ジュナンさんは市役所勤めで、この日は休みにもかかわらず奥さん同伴で案内してくださいました。彼は日本が大好きで奥さんは日本人でしたので、奥さんからこちらの生活ぶりなどを伺うこともでき、とても親近感のある視察となりました。

演劇施設は修道院として建てられた歴史的建造物で、芸術文化の薫る中で演出家、役者、舞台を支える人々が活動していました。日本にも劇場や美術館など文化や芸術を発表する場所は多くありますが、それらの勉強や研究などを行う場はまだ少ないと感じています。舞台裏を育てる文化施設の重要性を知ることができました。フランス文化にはワインが欠かせないようで、ワイン関係のイベントも多く行われるそうです。

古い城壁の街の歴史的建造物に囲まれて、夕暮れ時からテラスでワイングラスを傾けながら芸術談義をする光景を思い浮かべてアビニョンにいると、自分がまるで映画『終電車』の作品で知られる監督フランソワ・トリュフォーの世界の登場人物になった気がしました。それほどこの街が醸し出す雰囲気は、芸術文化の水準の高さを示していました。明治以後、日本の多くの芸術家がフランス留学をしている理由は街自体の魅力にあるのかもしれません。

そうしてみると、都市であれ小さな町であれ、街のアイデンティティーが生かされるまちづくりの必要性が感じられました。

アビニョンの市民は日本人に友好的で、副市長との会談でも「来年の3月には、京都市と姉妹都市を締結するために日本へ行く予定だから、竹内の町にも寄りたい」と言われました。「困った」と思いながらも「ウェルカム」と答えておきました。(実は元モナコ公妃のグレース・ケリーが好きなのだと私が話すと、彼はスマホに撮った彼女の写真を10枚ほど見せて「Me too, me too」と上機嫌になってしまったのです。モナコ公国はここから車で1時間半ほどのところにあり、フランスとの交流は密接であるようでした。ちなみに私たちのバスもモナコから来ており、運転手は「仕事が終わるとモナコまで帰る」と言っていました。)


副市長

意気投合したアビニョン市副市長

ノートルダム・デ・ドン大聖堂と法王庁宮殿は、お城と呼べるほど巨大な建造物でした。屋上からの眺めは日本の城の天守閣からの眺めと同じで、市内が一望できるものでした。建物内では演劇などのイベントも行うようで、この日も会場づくりをしていました。歴史的建造物であっても、こちらでは見学だけではなくホールや部屋などの空間を現代に合った形で上手く活用しており、庶民に馴染みやすいものとなっていることに感銘を受けました。

市役所では、「結婚宣誓の間」で市長の椅子に座らせていただきました。結婚は市長の前で宣誓することによって認められるとのことでした。ドイツでもウエディングドレスのままで新郎新婦、親族縁者が市役所に集まって祝福を受けていたので、ヨーロッパでは普通のことなのかもしれません。


市役所

アビニョン市役所

私

市長の椅子に座る私

最後にアビニョン橋の見学に行きました。童謡「アビニョンの橋の上で」で知られていますが、正式名はサン・ベネゼ橋といいます。この橋は氾濫のたびに被害に遭い、現在は半分が倒壊した後の残りの姿を留めていました。どこの国でも自然は時として私たちに牙を向け、災いをもたらします。私たちにできることは、普段からの備えしかありません。

目の前のローヌ川はゆったり水をたたえており、流れも時間も止めてしまったような夕暮れ時でした。ふと阿久比川の光景が頭に浮かんできました

今回はここまでとしましょう。次回は最後の訪問地「花の都パリ」です。


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